違反報告. たしかあの檸檬には、「私」の抱えてきた「えたいの知れない不吉な塊」と同等の重さがありました。また檸檬には、「丸善」にただよう憂鬱な空気を吸い込むような力もありました。それを「悪漢」となって、「丸善」に「爆弾」を仕掛けることで、今を破壊するのです。「私」は、その後の「丸善」を想像し、微笑んでいたということになります。 反面、黄色は、危険、緊張という意味あいも含んでいます。どちらにしても黄色はインパクトのある色として捉えられるでしょう。 この作品で何と言ってもインパクトがあるのが檸檬ですよね。よく他の果物だったら?他の色だったら?なんて仮定したりする感想がありますが、確かに他の果物や色ではこんなにもインパクトはないような気がしますね。やはり今日も画集を開くごとに気分は滅入ってきます。積み重ねた本を眺めるうちに私はふと、あることを思いつき、行動にでます。 余分なものをそぎ落とした感覚的でクールな文章と、鮮やかな心象風景の描写は、後のあらゆる世代にも高評価を受け、現代では近代文学の文豪としてファンが多い作家です。 でも、その気持ちをはっきりと言葉に表すというのは不可能なのではないでしょうか。自分の心を抑えているモヤモヤとしたものが何なのか、自分にもわからないのかもしれません。眩しい電球の光と、ガラス越しに見える柔らかい果物の眺めの対比がとても綺麗です。小説の中には、時々絵のように鮮やかに風景が目の前に広がるものがあります。火事の炎、電灯に浮かびあがる影など、映画のように美しい光景を描くことができるものです。得体の知れない不吉な塊に心を押さえつけられていた私。それは持病の肺のせいでも、借金のせいでもない何か。好きな詩も音楽の力を持ってしても楽しい心を取り戻すことができないものでした。主人公は結末で、檸檬を爆弾に見立てて丸善に仕掛けます。よく結末の意味がわからないという意見もありますが、梶井基次郎の作品は、意味を1つ1つ拾って理解するというよりも、感覚で読む作品です。色彩の鮮やかさ、それにともなう心象風景に特別な意味を求めるよりも、脳で読むより受ける印象や気持ちで読みたい物語です。素直に店の中のものを楽しむことができない何かが、主人公の心を押さえつけているということですね。将来に踏み出せない何か、将来を阻む何か、漠然とした不安が、積み重ねられた本に表されているようです。 意味がわからない結末も、絵画だと思えば「どんなふうに見えるかはあなたが考えて」と言われている気がしてきます。梶井基次郎の感覚的かつ知的な描写や文体を自分なりの解釈で楽しんでみてはいかがでしょうか。梶井基次郎は、明治34年生まれの小説家です。昭和の初めまで活躍した文豪ですが、文豪というイメージがないのは彼が31歳という若さで早逝したためでしょう。丸善は将来の憧れの象徴のような意味で存在し、描かれているのではないでしょうか。その丸善に対しての鬱屈した思いは、ずばり、目指す道への不安なのかもしれません。目指す道への不安が得体の知れない不吉な塊となり主人公を憂鬱にさせているのではないでしょうか。檸檬が日本で初めて栽培されたのは明治になってからです。檸檬という果物の存在自体が新しいものを表現しているともいえます。鬱屈した主人公の心には、爽快な迫力ある新しい象徴としての檸檬が飛び込んできたのかもしれません。 文壇にデビューし認められてからまもなく亡くなってしまったため、20編あまりの作品しか残していません。ですが、その評価はむしろ死後高まったと言えます。大阪で生まれ、少年時代から科学に興味を持ち電気技術者を目指しますが、しだいにその興味は文学へと移り、同人誌「青空」を仲間とともに創刊します。この作品の一番のネックになるのが、「得体の知れない不吉な塊」です。それがいったい何のことであるのか、作品中には書いてありません。他にも美しい表現が溢れている『檸檬』は、感覚で読み楽しむ物語。小説というよりかはどこか抽象絵画を鑑賞しているような気がしてくるほど。思うに、それはこの年代では当然のことなのではないのでしょうか。主人公の私は若者です。若い時期の心情は複雑です。憂鬱になったり滅入ったりするのは日常茶飯事。将来の事、今のこと、人との関わりがどんどん変化していく日常に、不安や期待に心を揺さぶられるのは当たり前のことですよね。 「檸檬」の冒頭の一行が浮かんできました。 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。 梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より) 「檸檬」は肺結核を病み、死や生を凝視していた梶井の私小説とも言えるでしょうが、その内面が日常のちょっとした風景や小道具に、見事に形象化されています。 「私」はこの「えたいの知れない不吉な塊」について、 閲覧数: 11,788 回答数: 1 お礼: 500枚. ☆始終「えたいの知れない不吉な塊」に「おさえつけられてい」る私 . ベストアンサーに選ばれた回答. taroさん. この物語で「不吉な塊」と「檸檬」は何を表すと思いますか? また、自分の人生において「不吉な塊」、「檸檬」は何を表すと思いますか? みなさんの考えをよろしくお願いします。 共感した 0. 「得体の知れない不吉な塊」という言葉から始まる梶井基次郎の名作『檸檬』。難解!良さがわからない!という声も聞きますが、近代文学の名作として評価が高い作品です。 とはいえ確かにこの名作が少し変わっているのは事実。名作or意味不明?!不思議な魅力を持つ小説「檸檬」を徹底紹介です! 2011/9/3 18:48:06.
焦躁[いらだちあせること]や嫌悪[憎みきらうこと。不愉快に思うこと]のようなもの (「といおうか」~自己分析不明瞭の表明) を伴う、精神的に「居堪」(いたたま)れない感情。 現象としての現実的説明 (一般に)酒を飲み過ぎると翌日は(不快な)宿酔になる ↓ 「私」は酒を毎日飲み続け ニューヨークも東京も株価が大幅に下がり、倒産する会社も出ているとか、新型コロナウイルスの影響はとどまるところを知りません。全国の小中高校の休校も大変な事態ですが、日本、いえ世界全体がこれまで経験したことのないような状況に陥っています。「私」はこの「えたいの知れない不吉な塊」について、こう述べます。今の自分に寄り添ってくれるのは、壊れかかった街、裏通りというような「みすぼらしくて美しいもの」。梶井は、不吉な塊にとらわれた自分の心を、小説という形を取ることによって表現しました。えたいの知れない「不安」は、いまここにあります。なぜそうなったかを考えたり探したりしてもその不安はなくなりません。いま、事態をすぐに変えることはできないのなら、私たちができる最大のものはこのイマジネーションではないでしょうか。かと言って、むりやり不安を払拭しようとしてもおそらく無理でしょう。ただの「楽観」になるのがオチです。「檸檬」は肺結核を病み、死や生を凝視していた梶井の私小説とも言えるでしょうが、その内面が日常のちょっとした風景や小道具に、見事に形象化されています。焦燥、嫌悪という、自覚はできるけれど自分ではコントロールできない心の働き。まるで「宿酔(二日酔い)」のような何とも言えない嫌な感じです。何も起こらない、けれどそのとき、その「想像」が「不吉な塊」をかき消してくれます。(ちなみに、ここの「結果した」について、どう取るかという議論がありますが、それはまた次回に)新型コロナウイルスを自分が直接生み出した、とは誰も思っていません。ただ、物事には知り得ない、特定できない原因というものはどこかにあるはずであって、私はまったく無関係で100%の被害者である、とも言えないでしょう。この状態がいつまで続くのか、感染がいつ収まるのか、まったく見えないということが人々の不安を増大させています。酒に限らず、結果としてどうなるかが薄々分かっていて、それでも抑えきれない行動をとってしまう、人間のありがちな行為がこの「不吉な塊」を呼び起こしてしまいます。メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。物語の最後に「私」は、気詰まりな場所になってしまった丸善を、その「檸檬爆弾」によってこっぱみじんにしてしまいます。もちろん「想像」することで。いや犯人捜しをしている場合ではありません。発生源の中国や、韓国を非難しても仕方がない。まして感染者に対してです。さらに、デマを拡散したり、買い占めや転売をしている場合でもありません。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。と、好きな果物屋で買った「檸檬」によって幸福になれたという不思議を表現しました。酒を毎日、大量に飲まなければ二日酔いにはならない、それは分かってはいるけれど飲んでしまう、というのが酒飲みの性です。