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【1996アトランタ五輪代表から現在へ】松原良香独占インタビュー! 文/戸塚 啓 現役Jリーガーや日本代表はもちろん、解説者から指導者として活躍する方々まで、日本サッカーに携わる様々な人々に迫る『SOCCER NOTE』。 話し方も朗らかになっていた 解説は、松原良香さんでした。 エスパルスのポゼッションサッカーが進化していく事を楽しみに、今後もお伝えしていきます。 結果は出ていませんが、可能性を感じさせるプラス材料は沢山ありました。これからです! 実況する私達も、 松原良香の目はいつもギラギラしていた. 現役時代はfwとして国内外のクラブで活躍し、引退後はサッカー解説者やサッカースクールの代表を務める松原良香氏が日本サッカー界の課題である"決定力不足"の克服をテーマとした書籍「ストライカーを科学する -サッカーは南米に学べ!-」を出版した。 どうなってるの?」って。ただ痛い思いをしていろいろわかりました。今は家族で行ってます。最近ですね。今はそうやって食べるのが楽しいです。西野監督にしても懲罰的に誰かを使わないとか、そんな小さな監督じゃないですよ。もちろん使われなかった選手はブツブツ言ってましたけど、でも対立するとか、全然そんなことはなかったです。そりゃそうですよ。2週間トレーニングやってなくて、オフで日本に帰って、練習参加するわけでなく何もやってない状態でいきなりバイエルンですから、そんなに簡単にいくわけない。一風変わった飲食店から、何度も足を運びたくなる大衆居酒屋まで思わず行きたくなる様々なお店を紹介!1997年にはジェフに行って、1999年にザイ(財前宣之)もいたクロアチアのリエカに移籍したんです。シーズン途中で入って、チームは優勝争いをしてたんですけど、僕をベンチに入れてくれたり、時々使ってくれたり。クロアチア代表とかハンガリー代表とかが攻撃の選手でたくさんいたんで、すごくやりやすかったし。最初駅に行ったときは、自転車ってタダで置いていいと思ってたんです。そうしたらお金がいるんですね。社会経験が全くなかったんでそんなことも知らず、一度家に帰ってお金取ってきました。そういうのがわかるのはやっぱり山本さんで、会ったときには「これはこうだから、こうやるんだよ」って教えてくれるんですけど、山本さんは五輪代表チームのほうに行ってるからあまり会えないんです。その代理人が「ヨシカ、お前ならもう1つ上のレベルに行けるから」ってオーストリーのラピド・ウィーンに話をするって言うんですよ。それで一度日本に帰ってもう1回ヨーロッパに行ったら話がまとまらなかったと。デレモンには3、4カ月いたんですかね。試合には出してもらったんですけど点も取れず。当時、ステファン・シャプイザがいたグラスホッパーだとかバーゼルとかと対戦しましたけど、デレモンは最下位のチームで、いいときにボールなんて来ないんですよ。それから、僕は人から必要とされるということがすごく好きなんだってわかったんです。必要とされて、その人の期待に応えたらもっとうれしい。だからこそ、人から必要とされるためには自分は勉強しなきゃいけないって。アンヘルに行ってたときはペンションに泊まってたんですけど、テレビは一つしか無いし、週末はフロントの人もいなくなるし。そのペンションに結構長いこといましたよ。まぁドイツは南米と比べると便利ですけどね。ただ自分がプレーできるのにプレーできる環境がないと苦しかったですね。それでデフェンソールを辞めて、納屋宣雄さんの紹介でブラジルに行ったんです。2カ月ないぐらいなんですけど、グワラチンゲタってクラブで練習して、納屋さんの友だちがボタフォゴの監督になるから入るかって言われて「はい」って。リエカを辞めてベルマーレに入るまで7カ月ぐらい経ってました。ときどき、もしあのまま最初のリエカに残ってたらきっと人生は違ってただろうと思います。おゆみパイの憂鬱で知られる「おゆみパイ」による連載、東京子メシ物語。都内のを中心にちょっと気になるなグルメスポットに訪れるグルメレポ。女性の一人飯に最適なお見せを多く紹介しています!冴えない貧乏大学生「串田ハルカ」がひょんなことから入部した珍食サークル。活動内容は、カエルのあらいや羊の脳みそなど、一般の食卓ではお目にかかれない変わった食事を楽しむこと!ビックリ食材と出会えるビックリ系グルメ漫画です!今となってはその意味がわかるようになりましたが、当時の自分には理解できなくて、「なんでこの人、自由にやらせてくれないの?」って思ってて。僕はそういう監督の指示を噛み砕いてくれる人がいたら理解できたかもしれません。ベルマーレの後もウルグアイに行き、アビスパに入って、2002年、もう1回ウルグアイに行ったんですよ。アビスパのときは手術をして試合に出られなくなって、クラブはJ2に落ちて。遂にバーグハンバーグバーグが、「みんなのごはん」に登場!バーグさん初のグルメコンテンツ企画が盛りだくさん!読み応えたっぷりのコンテンツしかありません・・・!ところが代理人同士の間でお金の取り分で揉めてダメになったんです。ドイツの代理人はスペイン語を話すんで、僕も会話の内容がわかったんですけどね。まぁ代理人にすると当然ですよね。自分が送り迎えしたり食事した分を取り返そうとするのは当たり前ですから。そのときは、まぁまぁの出来だったと思います。点は取らなかったと思うんですけど活躍して。そうしたら、次の日も来いと。それで次の日にも行ったら、何と相手がバイエルン・ミュンヘンなんですよ。何もできなくて。それでダメだったんです。はてなで人気のグルメ漫画ブロガーくらふとさんが大阪を中心に様々なお店を食べ歩き!時々他エリア編もあります!それで練習に行くチームバスに乗ると席がないんです。チームバスって誰がどこに座るか決まってるじゃないですか。だから僕は代理人と一緒に立って、山の中の練習場に行って、着いたら試合して。でも家族で食事なんて、前はそんなことしなかったですね。家族で一緒に食事するとか、絶対といっていいほどなかったんです。そのときの代理人は僕のこと大キライだったらしいです。彼からすると「オレはヨシカに投資して頑張ってきたのに何だ」って。飛行機代やホテル代は自分で払うんですけどね。代理人は送り迎えとか、一緒に食事したら出してくれるとかそういうことを言ってると思うんですけど。最初はカミさんの知り合いから教えてほしいって言われた子ども1人だったんです。教えたらまた教えてほしいって言われて、もう1回教えたら、ますます「ぜひ教えてほしい」って。やっぱり自分がやってきたことって、そのあとの人生に出るんだなって。それから親とか家族とか本当に大事しないとダメだなって。キザですけど、親とか家族を愛せないといい仕事はできないって。それに今だから言えますけど、僕が未熟だったので、ウルグアイに行ってる間に日本で詐欺に遭い、知人に預けた財産がなくなったんです。1年プレーして、リエカはまた契約したいと言ってくれたんですよ。給料は最初の年って安すぎたけど、次は生活していけるようなレベルの給料を提示してくれて。すごくいいところだったし、自分は本気でやろうと思ってたんですよ。はてなブロガーとして絶大な人気を誇るフミコフミオのグルメレポ。歴女な奥サマと湘南近郊の様々なグルメスポットを紹介しています。もっと勉強もしなきゃいけないと思って、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメントにも通ったんです。卒業まで2年かかったんですけどみんな協力してくれたおかげで卒業できた。それが今に生きてるんです。そして自分がやってることが周りに喜んでもらえるようになって、それがうれしいですね。それで日本サッカー協会から僕が代表選手だったと証明するレターを出してもらって、学校に入れてもらったんです。昼間はデフェンソール・スポルティングっていうクラブで練習して、夜は指導者学校に行ったんですよ。1994年にジュビロに入ったときって18試合に出場して7得点取ったんです。でも、2年目は急に出番が減って。たぶんオフト監督は僕を気に入らなかったと思うんですよ。僕が言い返したりとかしてたんで。僕はアトランタ五輪に出るというのが一番の目標だったんで、大会後は燃え尽き症候群みたいになってしまって。「次はワールドカップだ」って言われてたら、多分僕、シフトを変えてそっちに自分のエネルギーを注いだかもしれないと思うんです。五輪のアジア最終予選でサウジアラビアにゾノが点を取って勝ったときと、アトランタ五輪のときじゃ、明らかに空気が変わってました。周りが変わった部分もあると思うし。待遇もコックさんが帯同してとかになるじゃないですか。しかも相手がブラジルでさらに注目されて。だから空気感は予選とはまるで違ってましたね。それで朝9時ぐらいだったかな、到着したら誰もいないんですよ。代理人に慌てて「いないよ」って連絡したんですけど、代理人も「え?」って。ドイツの代理人は21時と勘違いしてたんですね。その後彼と会えて。ところがそこからが辛くて辛くて。そのとき山本さんはスパイクも持ってきてくれたんです。僕にお金が無いのを知ってて、「このスパイクを履け」って。ところが僕はそのスパイクを売っちゃって遊びに使うわけですよ。ずっとあとで山本さんには告白して、「そうだったのか、お前は!」って呆れられました。で、最後にたどり着いたのがスイスのデレモンだったんです。デレモンでプレーしたときって、無給だったんですよ。それでも僕はプレーしたかったんです。それくらい追い詰められてて。それでも次はイタリアのクラブがあるってことで、ミラノに行って契約を待ったんですけど、それもまとまらない。で、リエカに戻ろうと思ったらリエカの話もなくなって。そうしたらオフト監督は僕が点を取ってるのに別の選手を使ったりとか。ところが年俸は2年目の1995年のほうが上がったりして、矛盾してたんです。僕はそういうのがあまり好きじゃなくて。今思えば、オフト監督は僕のことを思ってくれてたと思うんです。でも当時はそんなこと全く思わず、目の前の現象でしか判断できませんでした。そうしたら、お前はサッカーの勉強でうちのチームに来てることになってるから契約するつもりはないし、最初からそう言われてるからって。あぁ、エージェントにやられたって、それでわかりました。でも、チューリッヒに練習参加だけはさせてもらえて、勘を取り戻そうとしたんです。そうしたらそこにゾノもやってきて。ゾノも海外移籍しようとしてて、それでゾノの泊まるホテルに潜り込んだんですよ。ホテル代や食事代はゾノが払ってくれてたんで、ホッとしながらゾノと一緒にチューリッヒの練習に参加してました。面白いグルメ記事からちょっとためになるグルメ情報まで様々なコンテンツを更新中!僕からすると雲の上になっていった人が、こうやって頑張ってると、また同じステージに近づけて、さらに環境がよくなれば、自分もまた成長していける。また自分が成長するとさらにいい話をもらったりとかできるようになったんです。指導を勉強できたのはよかったと思います。学校にはサッカーだけじゃない人も来るんですよ。バレーボールとかバスケットとか。2002年日韓ワールドカップがあって、「なんで日本はいきなりあんなに強くなったんだ」とか言われながらやってて。それはいい経験だったんですけどね。しかも僕はまだ調子に乗ってたんで、アンヘルの試合を見ながら「オレが入ったら決められる」とか言ってたんですよ。すると、練習のときにガツンと来るんです。変な日本人が来た、みたいな。それにみんなすごくサッカーが大好きだったんですよ。なんで僕たちがアトランタ五輪に出られたかというと、誰が何を言っても「世界大会に出るため」って目標に戻ってたんで。今、サッカースクールは全部で250人ぐらいですかね。いろいろなところでやらせていただいてます。その間、苦しいことも沢山あり、懸命に乗り越えてきました。一時期、もっと多い人数がいたんですよ。セカンドキャリアとしては順風満帆だったと思います。でも、そこでスクールを取られる経験もしました。その経験もよかったと今は感じてます。だから今のサッカー選手たちには人間教育が大事で、失敗することこそ、成功に繋がっていくことを知ってほしいです。仕事ばかりやってたんで、家族と外に食べに行くというのはなかったですね。もちろん、誰か自分の教え子とか食べに連れて行ったりもしてましたし、何かお祝いのときは行ってました。お肉の白い部分と赤い部分のバランスが絶妙だし、見た目もいいんです。おいしそうだねって見ただけで思いますよ。しかも肉が、薄すぎても厚すぎてもなく、本当にちょうどいい加減に切ってある。お皿に載せたときに肉ばかりが目立ったりしてないんです。味だけじゃなくて、そういういろいろなところがすごいんで、ぜひ食べてみてくださいね。そうしたら5人が9人になって、どんどん増えてって80人、100人になって。何かスポンサーがついたわけではなく、生徒一人一人がスポンサーでした。でも、2002年って僕は子どもが生まれたばっかりだったんです。単身で行ってたから離ればなれで。僕、選手のときにカミさんとか家族で住んだことって、たぶんベルマーレの1回ぐらいしかないと思うんですよね。そういうのも辛くて。そうじゃなくて、自分でやらなきゃいけないというのをすごい感じたんですよね。そう思ったら、感謝とか、挨拶とか、いろんなことを覚えていくんです。電話一本入れる。電話だけじゃなくて、このタイミングはメールを入れたほうがいいんだとか、いろいろ学びました。そうしたら代理人からドイツのハノーファーに来いって連絡があったんです。ハノーファーに飛んだら、ドイツサイドの代理人が待ってるからって。それに細かいことでもぶつかっちゃって。クラブはプーマと契約してたけど、僕は何にも気にしないでアディダスのシューズを履いて練習場に行ってたんですよ。そうしたらオフトは、3本線を塗りつぶせと言うんです。それでいろんなチームを周って、あるとき3部のクラブに練習参加したら「ほしい」と、具体的な給料も言われたんです。スタジアムを見に行ったら人もいっぱい入ってたんで、ここでやりたいと思ったんですよ。で、そのままの思いで行って、そうしたらグラウンド整備をさせられて。当たり前ですけど。でも当時は「なんで先輩のほうが下手なのにオレがグラウンド整備なの」って思っちゃって。ホント、今考えると申し訳ないです。やっぱり人間形成だと思うんです。トップレベルの選手は人間的に素晴らしいじゃないですか。そんな選手になって人に感動や夢を与えられるように、サッカーを通じてきちんと指導しなきゃいけない。そういうことが大事だなって。自分を振り返ってみてもそう思いますね(笑)。
【1996アトランタ五輪代表から現在へ】松原良香独占インタビュー! 文/戸塚 啓 現役Jリーガーや日本代表はもちろん、解説者から指導者として活躍する方々まで、日本サッカーに携わる様々な人々に迫る『SOCCER NOTE』。 話し方も朗らかになっていた 解説は、松原良香さんでした。 エスパルスのポゼッションサッカーが進化していく事を楽しみに、今後もお伝えしていきます。 結果は出ていませんが、可能性を感じさせるプラス材料は沢山ありました。これからです! 実況する私達も、 松原良香の目はいつもギラギラしていた. 現役時代はfwとして国内外のクラブで活躍し、引退後はサッカー解説者やサッカースクールの代表を務める松原良香氏が日本サッカー界の課題である"決定力不足"の克服をテーマとした書籍「ストライカーを科学する -サッカーは南米に学べ!-」を出版した。 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