津田梅子. 趣味はその人の人生を素晴らしいものに変化させてくれる。 少しぐらいのことは黙って耐え忍ぶように心がけよう。無言という有難い贈り物を身につけるように努力せよ。 過去も未来も生きることはできません。明日のための最善の準備は今日をすばらしく生きることです。 明日を耐え抜くために必要なものだけ残して、あらゆる過去を放棄しなさい。 25歳まで学べ。40歳まで研究せよ。60歳までに完成させよ。 カナダの辺境の地に生まれたオスラーは,70 年の生涯の間に,モントリオールのマギル大学,フィラデルフィアのペンシルバニア大学,ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院および同大学で診療,著述,医学教育を行い,イギリスに渡ってオックスフォード大学医学部欽定講座担当教授になってからも精力的に活動を続けた。彼は,才気あふれる革新的な教師であり,学生たち,特に,ジョンズ・ホプキンズの男女学生から深く慕われた。彼らはジョンズ・ホプキンズから北米各地へと巣立ってゆき,医学における北米優位の新時代を築くリーダーとなった。 私は、諸君が医療に携わる際には患者一人一人を気遣ってほしいと思っている。病める哀れな人間と向き合っていると、われわれは人間の真の姿を見、その弱さを目の当たりにする。そんなとき諸君は、人間を見下すことのないよう、心を柔軟にして優しい気持ちを常に持ち続けてほしい。 たいていの人は、剣によるよりも、飲みすぎ、食いすぎによって殺される。 本を読まずして医学を学ぶことは海図を持たずして航海に出るに等しく。患者を診ずして医学を学ぼうとするは全く航海に出ないに等しい。 物事は自分の思うようにはならない。少しぐらいのことは黙って耐え忍ぶように心がけよう無言という有難い贈り物を身につけるように努力しなさい。 何かひとつ趣味を持たない限り,人間は幸福も安心も得られない。どんなものに興味を持とうと、その人の人生は素晴らしいものに変化する。趣味の馬を乗りこなせる限り、何の趣味でもかまわない。 オスラーは,具体的には何を発見したのだろうか? 実は,彼の発見はほとんどない。しかし,当時の医学の各分野についてフロンティアの地図を作成したら,しばしばオスラーが先駆者の一人としてそこにいるのを見いだすことになるだろう。オスラーが何を発見したかという質問が不適切なのだ。彼は,発見を職務とする実験科学者ではなく,疾患の自然経過の観察者・研究者・教師であり,現場で働く医師だったからである。彼は,医学が科学にもとづかなければならないことを理解し,基礎医学研究者による画期的な発見を称賛し,その成果を積極的に取り入れた。臨床医としては,こうした知見を利用して患者を治療しようとしたし,教師としては,学生に科学と治療術を教えた。 基礎医学研究者とその発見は,患者の治療にあたる臨床医を補助し,道具を提供することはできるが,その代わりになることはできない。オスラーは教師として,アメリカに病院実習制度(医学生をベッドサイドで働かせることで医師としての仕事を学ばせる制度)をもたらすという革命も起こした。 医学は患者と共に始まり、患者と共にあり、患者と共に終わる。 青春の生活の中で、もっぱら幸福を与えてくれるのは、友情の贈り物である。 今日一日の枠の中で生きる。習慣を身につけるように心がけるべきでしょう。 3時間机で勉強するよりもベッドサイドの15分が勝る。 われわれの大事な仕事は、遠くの方にかすかにあるものを見ようとすることではなく、手元に明らかに存在するものを行うことである。 あなたが観察し学ばなければならないことは、自分の目で見、聞き、そして心で感じること。 オスラーは,文字どおり自分が興味の対象としていたことについて本を書いた。彼が1892 年に出版した『医学の原則と実践』は,近代医学の最初のすばらしい教科書だった。この教科書は市場を独占し,大ベストセラーとなり,多くの版を重ねた。それはまた,1 人の著者がすべての内臓疾患を解説する教科書としては最後のものとなった。オスラーは,教科書のほかにも数百本の研究論文を執筆し,腸チフスや梅毒のような主要な疾患から,ありとあらゆるめずらしい状態まで(その一部には彼の名前が付されている),驚くほど多様な疾患,症候群,症例について,その特徴,診断法,治療法を報告した。 穏やかな平静の心を得るために、第一に必要なものは、諸君の周囲の人達に多くを期待しないことである。 医療とは、ただの手仕事ではなくアートである。商売ではなく天職である。すなわち、頭と心を等しく働かさなければならない天職である。 闘い抜く価値のあるもので障害のないものが、この世にありうるだろうか。 ウィリアム・オスラーの生涯は,彼が生きた時代の医学と文化を印象的に照らし出す。私は,それがわれわれの時代をも照らし出すことを期待している。本書は,近代医学の始まり,医師の教育,医師と患者との関係,医学思想における局所観と全体観,ロールモデル,フェミニズム,ヒューマニズム,自然科学と人文科学,ヴィクトリア時代の道徳,アメリカの勃興,北大西洋を取り囲むイギリス,カナダ,アメリカの文化,第一次世界大戦,キリスト教の凋落,加齢に伴う心身の衰え,医療という宗教,英国国教会気質,およびその他の多くの問題を取り上げる。しかし,どんな伝記も,その人物の生涯を再構成することを核としなければならず,その試みは,知的病理学や社会科学を超えるものだ。 達成された量や困難さを考えるのではなく、あなたのすぐそばにある。小さな仕事をこつこつとこなし、それによって一日を充実させなさい。なぜなら、ぼんやりと霞んだ遠くのものを望まずに身近にあるものをなす、それがわれわれ人間の本分だからだ。 頭の中から未来を消しなさい。今この時間を与えられた仕事のために生きなさい。医療は経験であり、取引ではない。使命であって商売ではない。その使命を全うする中で、あなたはその心を頭と同じくらい使うことになる。 良き医師は病気を治療し、最良の医師は病気を持つ患者を治療する。 若者にとって欠かせないのは、友情の恵みである。信頼も、裏切りも、すべてが経験となる。 どんな職業につこうと、成功に向かう第一歩は、その職業に興味を持つことだ。 未来とは今日のことです。明日など存在しないのです。人間救済の日は今日をおいてありません。 昨日の重みに加えて明日の分まで今日背負うとしたら、どんなに強い人でもつまづいてしまう。 ウイリアム・オスラー(William Osler)【1849年7月12日 - 1919年12月29日】カナダ、オンタリオ州生まれの医学者、内科医。オスラーは初め、トロント大学で聖職者を目指したが、のちに自然科学に対して強い関心を抱くようになり、医学へ転向した。トロント大学医学部に入学後マギル大学医学部に転学し、卒業後、英国・ドイツ・オーストリアなどへの留学中にきわめて広範な研究を行い、後の経歴の基礎を築いた。 これらを踏まえて候補を選び、最終的に財務大臣によって決定されるそうです。ただし、毎回どの人物もそうなのですが、選ばれた詳細な理由については明かされていません。この他にも、10年間英語で会話をしていたので、日本語を忘れてしまい通訳が必要な状態でした。彼女たちのように津田塾大学の卒業生たちは、津田梅子の遺志を継ぎ、さまざま分野で活躍しています。現在、日本政府は女性が活躍できる社会づくりに力を入れています。津田梅子が選ばれた理由には、これからの時代に女性の活躍を願ったメッセージが込められているのかもしれません。また、玄関で靴を脱ぐことも忘れており、完全にアメリカの習慣に染まっていたようです。これについて財務省は、「紙幣の肖像は写真を参考にはするが、印刷局の専⾨家が原版を彫るものだ」として、問題ないとの見解を示しました。帰国後、梅子は華族⼥学校などで教師として働きはじめます。しかし、梅子は幼少期から10年間もアメリカで生活をしていたので、日本とアメリカとのギャップに戸惑っていました。日本の女性高等教育に大きな功績を残した津田梅子は、生前にさまざまな名言を残しています。以下その一部を紹介します。当時の日本は女性の地位が低く、「女性は勉強をしなくてもいい」という今では考えらないことが常識でした。2024年に津田梅子と同じく新札の顔になる渋沢栄一は、再来年の大河ドラマでその人生が描かれます。では、津田梅子のドラマ化はあるのでしょうか。今回、新札に津田梅子が起用されたことについて、津田塾大学からも喜びの声が上がっています。では、津田梅子が創立した津田塾大学は、どのような大学なのでしょうか。一人の女性が決意した志は現在も受け継がれ、日本は少しずつ女性が活躍できる社会へと変化しつつあります。創立間もないころは資金力が弱く経営に苦しみ、またこの頃梅子は身体を壊してしまいます。しかし、梅子は終生、女性高等教育のために尽くしました。アメリカから帰国後、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会に梅子は出席しました。この時、当時すでに有名だったヘレン・ケラー、ナイチンゲールなどから数多くの刺激を梅子は受けます。ここまでの津田梅子像は現存している写真から想像しても、口数が少ない真面目な女性という印象です。しかし、このイメージとは、まったく違う彼女のエピソードがあります。創立以来、これまで津田塾大学では、数多くの優秀な人材を輩出してきました。しばらくしてワシントンに移り住むことになるのですが、その後、再びランマン夫妻の家で下宿することになり帰国するまでお世話になりました。梅子が54歳の時、塾の経営が安定し始めた1919年(⼤正8年)1⽉に塾⻑を辞任します。その後、鎌倉で闘病⽣活を送っていたのですが、1929年(昭和4年)8⽉16⽇に64歳でこの世を去りました。梅子の父は元江戸幕府の幕臣でした。しかし、幕府崩壊後は、幕臣から築地のホテル館に勤め始め、津田一家は向島(現在の東京都墨田区)で暮らすようになります。梅子も経験した少人数教育は、現在も津田塾大学に脈々と受け継がれています。父・津田仙は、黒田清隆が企画したアメリカへの女子留学生募集に、梅子を応募させました。特に「男性と協⼒して対等に⼒を発揮できる⾃⽴した⼥性の育成」は、 梅子が描いていた日本女性のあるべき姿が分かります。思わぬことで注目された津田梅子ですが、先ほど少し紹介したように津田梅子は、女子高等教育の先駆者であり、有名な津田塾大学を創立した人物です。向島での生活では、梅子も父の農園の手伝いをするようになり、5歳になると、私塾・三省堂に通い始めて読書と習字を学び始めました。しかし、梅子がアメリカに染まっていたからこそ日本とアメリカの違いに気づくことができ、後の女性高等教育の草分けへと繋がっていくのです。前述の通り、津田梅子は6歳からの10年間アメリカで生活していました。そのため、おとなしい日本的な女子ではなく、陽気で豪快なアメリカ娘になっていたようです。つまり、現在の津田家には、津田梅子と西郷隆盛の2人の偉人と深い縁があるのです。当時の日本女性は、人前で大声を出して笑うことがありませんでした。しかし、多感な時期をアメリカで過ごした梅子は、人から何か言われても大きな声で笑い飛ばしていたようです。 偉人 津田梅子の名言集by心の常備薬 津田梅子:日本の教育者 日本における女子教育の先駆者と評価される。 初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。 江戸の生まれ。 明治33年(1