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今日の御言葉 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します。労苦はその日その日に、十分あります。 (マタイ6:34) So do not worry about tomorrow; for tomorrow will care for itself. それでは、マタイの福音書6章、『主の祈り』の後です。14節から見て参ります。『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 イエスは、マタイによる福音書第6章25節から34節で、何を食べるか、何を飲むか、何を着ようと思い悩むのではなく、なによりもまず、神の国と神の義を求めれば、これらのものはみな加えて与えられると語られます。この記事では、この招きについて深く考察します。 マタイ6章25~34節: 26: 2018年08月05日 「人を裁くなという教えに込められた神の御心は」 マタイ7章1~6節: 27: 2018年08月19日 「飢え渇くことがなぜそんなに大事なことか」 マタイ7章7~12節: 28: 2018年08月26日 「山上の使信の結びとして示された狭き道」 マタイ7章13、14節: 29: 2018年09月02日 … 自然界の教えの二番目は「野のゆり」である(28~30節)。ここでは特に着るものとの関連で言われている。「野のゆり」<クリノン>が実際、どの花を指して言われているのかは定かではない。日本の山ゆりのようなものとは違っているようである。<クリノン>は、ラナンキュラス、アドニス、アネモネ等の野の花を指していると考えられる。イスラエルの野でもっとも普通に咲いているのはアネモネらしい。野のゆりは「働きもせず、紡ぎもしません」(28節)というのはその通り。けれども、ご覧あれ、とキリストは言いたい。野の花は自分たちの生育のことで思い煩い、悩んだりしてはいない。神が育て、着せてくださっている。神がすべて手をかけてくださっている。キリストは「よくわきまえなさい」(28節)で言われているが、このことばは「十分に理解する」また「注意深く観察する」といった意味のことばである。私たちは何気なしに自然界を眺め、ただ綺麗だね~で終わってしまうことがあるが、自然界を神が造られた作品、また生育しておられる作品として観察力を高めたいと思う。自然界を神にあって読みたいと思う。その時、神のメッセージが聞こえてくる。「・・・自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、」(25節前半)。この「いのち」は地上のいのちのことである。食生活が地上のいのちを左右するので心配になる。「また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」(25節前半続き)。地上のいのちと切っても切れないものに肉体がある。肉体には着るものが必要である。食べるもの、飲むもの、着るものは、人間にとっての基本的な必要である。これらのものは、キリストのメッセージを聴いている大半の者たちにとって、心配の種となっていた。なぜなら、聴衆の大半が貧困層に属していたと思われるからである。しかし、最も貧しい人といえども、キリストの次の意見に同意せざるを得ない。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」(25節後半)。にもかかわらず、聴衆の大半は、食べものや着るものが最も大切なものであるかのような態度で暮らしていた。しかし食べるものよりもいのちが大切、着るものよりもからだが大切。このことが本当にわかっていれば、食べるもの、飲むもの、着るものに夢中になって、そのために生きているかのような態度はとらないはずである。もっと快適な生活を、もっと富を、貧しさとみじめさからの脱却をと、関心がそこに集中して生きるということはないはずである。神とともに生きるということに関心が集中するはずである。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(32節)。食べるもの、飲むもの、着るものだけをひたすら求める物質主義は空しい。神はすべての必要をご存じであるので、私たちが優先して求めるべきものは神の国とその義である。神の国とその義とを求めるとは、一言で、神に従うことを求めることだという言い方もされる。その通りである。24節において、「だれもふたりの主人に仕えることはできません」と、神と富の両方に仕えることは難しいというのではなく、それは不可能なのだということを学んだ。私たちが仕えるべき主人とは神だけである。そして、神に仕え服従するならば、「それに加えて、これらのもの(すなわち衣食住)はすべて与えられます」という約束が実現する。本日の箇所は経済生活の原則についての教えとなっている。結びは「だから、明日のための心配は無用です」。本日は今年最後の礼拝だが、先行きどうなるかわからない不安定な時代にあって、新年をどのような心で迎えたらよいのかを知るのに、ふさわしい箇所である。このような約束が与えられているのだから、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)と、今日を精一杯生き、明日のことは心配しないで神にゆだねていきたい。「あすのための心配は無用です」は原文では命令形である。しかもきっぱりとした決断を求める文体になっている。意訳すれば、「あすのための心配は決してしてはならない」となる。続けて「あすのことはあすが心配します」と言われている。キリストは私たちが余計な心配を先取りしてしまう弱さをもっていることを知って言っておられる。だいたい私たちは、今日のことを心配するよりも明日のことを今日先取りして心配してしまう。明日のための心配は取り越し苦労である。それは決してしてはならないと命じられている。明日のことは明日にまかせ、今日するべきことに集中しなさいということである。それは「労苦はその日その日に十分あります」ということばでおぎなわれている。「心配」という思い煩いはことばを変えれば精神的苦痛である。今日の労苦だけで十分なところ、そこに余計な精神的苦痛を呼び込んで、精神的負担を重くしても益とならない。今日の労苦を神とともにせいいっぱいこなすことだけに集中したい。「労苦」ということばは、「苦しみ」という意味をもつことばだが、苦しみはその日一日に十分ある。そこに余計な苦しみを加えるというのは害にしかならない。心にも体にも悪い。私たちは明日のことを心配するのではなく、明日のことは神に信頼するのである。しばらくクリスマスシーズンということで、山上の説教の学びを中断していたが、前回は19~24節から「天に宝を積む」ということについて学んだ。24節では「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」と、つまり、神と富の両方に仕えることは不可能であるということ、ゆえに二心は捨て、神一本の心で誠心誠意神に仕えなければならないことを学んだ。私たちはキリストの教えを楽観すぎると思ってはならない。聖書は私たちに明日のことに関心を払うなとは言っていないので誤解のないようにしたい。私たちは行き当たりばったりの生き方を勧められているわけではない。私たちは明日のための計画を立てるだろう。明日のための願い事を神にすることも許されている。そうしたら、明日のことは神に信頼しておまかせするのである。神は今日の重荷をともに担ってくださるばかりか、先頭に立って導き、明日の道備えもしてくださる「あしたの神」でもある。明日のことは心配しなくていい。労苦はその日、その日に十分ある。与えられた一日の労苦を神とともにせいいっぱい取り組めば、それが明日につながる。私たちは神を信じたら労苦は無くなるなどと言われていない。労苦は今日も明日もいつもある。問題は次々起こる。すべての人の未来にトラブルはつきもの。違いは、それらに神への確かな信頼をもって直面するのか、心配をもって直面するのかのどちらか。違いはこの二つに一つ。信頼か心配か。ゆだねる信仰か思い煩いか。明日を信頼をもって迎えるのか、明日を心配をもって迎えるのか。信頼か心配か。私たちは前者を、天の父なる神にあって選び取りたいと願う。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(33節)ここで積極的命令が与えられている。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。この命令文は、原文では、継続を命じる文体となっている。よって、欄外注にあるように「求め続けなさい」という命令となる。日々、求め続けるわけである。何を?「神の国とその義とを」。私たちは先に、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えられた(6章10節)。神の国は「神の支配」を意味し、それはキリストの来臨によって始まった。そして神の国の完成はキリスト再臨の後に来る新天新地である。今、みこころは天で行われているが地では行われていない。それを妨げる力が働いている。偶像の神々が拝まれ、また不義、罪、災いがのさばっている。しかし、やがてそれらが取り除かれ、天と地が一つとされ、新しい世界が来る。御名は全地で一つとなり、神の御名だけがあがめられる。その世界の性格は不義や罪ではなく、義である。私たちは、この完成した神の国を待ち望む。神の国とその義とを第一に求める者は、神の国の前進を願って、何よりもキリストの福音を伝えることに心を砕くであろう。キリストの福音を信じる者は罪を赦され、義と認められ、キリストが王となる御国の民とされるのである。キリストの福音は御国の福音とも言われている。この福音を伝えることが一番大事なことである。次に、神の義を実践することである。ある人はこの世が社会の改革のためにとっている愚かな手段について、次のように描写している。「この世の多数派がとる手段は暴力である。権力者たちは、自分の気に入らないことが起こると、爆弾を落とし、戦車を出動させる。権力を持たない人たちは、ショーウインドーを割り、群衆にまぎれて自爆し、建物に飛行機で突っ込む。どこから見ても、どちらのやり方も、物事を変えるにはまったく有効でないと分かっていながら、同じことをし続ける」。暴力や復讐、それは何の解決にもならないし、これらは義と正反対の行動である。では私たちの求める義とは何か。キリストは5章20節において、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われ、律法学者やパリサイ人の義にまさる義の概要を5章21節以降の律法の解釈で教えてくださった。そこでは憎しみや怒りではなく赦しが説かれ、聖さが説かれ、誠実が説かれ、敵をも愛する愛が説かれていた。こうしたキリストの教えを身に着けて、地の塩、世の光として生きようとすることこそ、義を求める者の姿である。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」(31節)。「そういうわけだから」とこれまでの教えから結論を引出している。心配しているのではなく、神が養ってくださると、その確固たる信頼を持たなければならない。もちろん、怠惰を聖書は認めてはおらず、日々の糧のために働かなければならない。しかし、心配しながらそれをするのと、神を信頼してするのとでは違う。キリストはここで、あなたがたは心配するのは当然のこと、仕方ないよね、と妥協の弁は言われていない。「心配するのはやめなさい」と命じている。この命令文は、原文では、きっぱりと決断することを迫る文体となっている。よって、「心配するのはきっぱりとやめなさい」「心配するのは金輪際やめなさい」といった意訳が可能だろう。心配すべきでないことをいつまでも心配している時、また心配しそうになる時、この命令を受けとめよう。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(27節)。人間とは心配する生き物である。次の自然界の教えの前に、キリストは心配の無意味さをまず強調する。地上のいのち、肉体のいのちは、心配によって少しも延びることはない。「いのち」と訳されていることばだが、新改訳では、これまでの用法により、「年齢(年)」というニュアンスで受け止めている。よって、心配しても、あなたのいのちの長さは少しも延びませんよ、ということである。逆に縮んでしまうかもしれない。また「いのち」の欄外注の別訳では「身長」となっている。このことばは実際、他の箇所では「背(身長)」(ルカ19章3節)とも訳されている(ザアカイについて「<背>が低かったので」)。よって、心配しても、あなたの身長は少しも伸びませんよ、と受け止めることもできる。心配しても身長どころか、鼻は高くならないし、足も伸びない。25節からは、神に仕える者たちの心のあり方を「心配」ということばをキーワードにしながら説明がなされている。「神に誠心誠意仕えなければならないということはわかった。でも食べるもの、飲むもの、着るもの、その他もろもろのことで心配になる」。そうした心配が起きる者たちのために、キリストは多くのことばを使って、心配すべきではないことを教えていく。マタイの福音書には「心配する」ということばが7回使われている。そのうち6回が今日の箇所に登場している。「心配する」の原語<メリムナオー>は、思いがバラバラになるというニュアンスのことばで、ピリピ4章6節では「思い煩う」と訳されている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いとによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。これらからわかるように、ここでキリストが言われている心配とは、「あなたのことを心配していますよ」という愛の配慮からくる心配ではなく、役に立たない無用な思い煩いのことである。心配することの反対は何かと言うなら、神に信頼することである。私たちはそのことを学び取らなければならない。キリストが野のゆりを取り上げた一番の理由は、その華やかさにある(29節)。「ソロモン」はイスラエル初代の王で、栄華を窮めた古代の王である。金や銀をふんだんに使って王宮、神殿を建設した。備品、調度品を含めて、一級品が使用された。デザインも見事なものであったようである。ここでの比較は野のゆりの装いとソロモン王の衣装である。第一列王記10章にはエジプトのシェバの女王の見聞録が記されているが、しもべたちの服装でさえ見事なものであったことが伺える。ましてや王服は王冠を含めてどれほどゴージャスなものであっただろうか。しかし、「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした」と言われているので、神はいかに偉大な芸術家であるのかということがわかるし、花に対する神の多大な関心、気遣いということを考えさせられる。花が美しいのは神のおかげである。けれども、そんなことを考えないで過ごしてるのが人間である。次にキリストは、自然界から彼らに教えようとする。初めは「空の鳥」である(26節)。ここでは、食べるもの、飲むものとの関連で言われている。空の鳥は種まき、刈り入れといった農作業をしないが、飢えることはない。また空の鳥は倉に納めることもしない。すなわち、蓄えておくこともしない。けれども飢えたりはしない。なぜか?「あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」。ここでは、ただ「天の父が」と言われておらず、「あなたがたの天の父が」と言われている。だから、神はわたしの父と強く認識したい。この意味の重要性を知っていただくために、わかりやすくたとえで表現してみよう。子どもがいるある父親がいて、小鳥を飼っていて、毎日、エサを与えて養っていたとする。その父親がペットの小鳥を養っておきながら、自分の血のつながった子どもの、いのちやからだに無関心ということがあるだろうか。キリストは「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と念を押している。そこでキリストは次のように言われる。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(30節)。ここを読んで、野の花のはかないいのちということが印象づけられるが、それにしても「明日は炉に投げ込まれる」とは、どういう意味であろうか?「炉」とは粘土質の土を固めて作ったもので、主にパンを焼くために使われた。いわばオーブンである。女性がパンを焼こうとした時、近くの野に出かけ取ってきた草と野の花を乾燥させたものを燃料として使った。花のいのちは、古代イスラエルではより短く感じられる。そのいのちはまことにはかない。炉に投げ込まれなくとも、熱風で一瞬にして枯れてしまう土地柄でもある。そんな花であっても、神は最高のセンスで着飾ってくださる。「ましてや、あなたがたによくしてくださらないことがあろうか。信仰の薄い者たち」。神は神を父と仰ぐ私たちを裸のままに放置されることはありえない。神は野の花以上に私たちに価値を見出してくださっている。けれども、心配してしまう私たち。そんな私たちは「信仰の薄い者たち」と言われている。「信仰が無い」と言われていないところが救いではある。しかし、このままでいいわけではない。キリストは「信仰の薄い者たち」と、マタイの福音書では、この他に3回言われている(「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」マタイ8章26節、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」14章31節、「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか」16章8節)。恐れなくていいのに恐れる、心配しなくていいのに心配する。そんな時、「信仰の薄い人」と言われてしまう。
今日の御言葉 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します。労苦はその日その日に、十分あります。 (マタイ6:34) So do not worry about tomorrow; for tomorrow will care for itself. それでは、マタイの福音書6章、『主の祈り』の後です。14節から見て参ります。『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。 イエスは、マタイによる福音書第6章25節から34節で、何を食べるか、何を飲むか、何を着ようと思い悩むのではなく、なによりもまず、神の国と神の義を求めれば、これらのものはみな加えて与えられると語られます。この記事では、この招きについて深く考察します。 マタイ6章25~34節: 26: 2018年08月05日 「人を裁くなという教えに込められた神の御心は」 マタイ7章1~6節: 27: 2018年08月19日 「飢え渇くことがなぜそんなに大事なことか」 マタイ7章7~12節: 28: 2018年08月26日 「山上の使信の結びとして示された狭き道」 マタイ7章13、14節: 29: 2018年09月02日 … 自然界の教えの二番目は「野のゆり」である(28~30節)。ここでは特に着るものとの関連で言われている。「野のゆり」<クリノン>が実際、どの花を指して言われているのかは定かではない。日本の山ゆりのようなものとは違っているようである。<クリノン>は、ラナンキュラス、アドニス、アネモネ等の野の花を指していると考えられる。イスラエルの野でもっとも普通に咲いているのはアネモネらしい。野のゆりは「働きもせず、紡ぎもしません」(28節)というのはその通り。けれども、ご覧あれ、とキリストは言いたい。野の花は自分たちの生育のことで思い煩い、悩んだりしてはいない。神が育て、着せてくださっている。神がすべて手をかけてくださっている。キリストは「よくわきまえなさい」(28節)で言われているが、このことばは「十分に理解する」また「注意深く観察する」といった意味のことばである。私たちは何気なしに自然界を眺め、ただ綺麗だね~で終わってしまうことがあるが、自然界を神が造られた作品、また生育しておられる作品として観察力を高めたいと思う。自然界を神にあって読みたいと思う。その時、神のメッセージが聞こえてくる。「・・・自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、」(25節前半)。この「いのち」は地上のいのちのことである。食生活が地上のいのちを左右するので心配になる。「また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」(25節前半続き)。地上のいのちと切っても切れないものに肉体がある。肉体には着るものが必要である。食べるもの、飲むもの、着るものは、人間にとっての基本的な必要である。これらのものは、キリストのメッセージを聴いている大半の者たちにとって、心配の種となっていた。なぜなら、聴衆の大半が貧困層に属していたと思われるからである。しかし、最も貧しい人といえども、キリストの次の意見に同意せざるを得ない。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」(25節後半)。にもかかわらず、聴衆の大半は、食べものや着るものが最も大切なものであるかのような態度で暮らしていた。しかし食べるものよりもいのちが大切、着るものよりもからだが大切。このことが本当にわかっていれば、食べるもの、飲むもの、着るものに夢中になって、そのために生きているかのような態度はとらないはずである。もっと快適な生活を、もっと富を、貧しさとみじめさからの脱却をと、関心がそこに集中して生きるということはないはずである。神とともに生きるということに関心が集中するはずである。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(32節)。食べるもの、飲むもの、着るものだけをひたすら求める物質主義は空しい。神はすべての必要をご存じであるので、私たちが優先して求めるべきものは神の国とその義である。神の国とその義とを求めるとは、一言で、神に従うことを求めることだという言い方もされる。その通りである。24節において、「だれもふたりの主人に仕えることはできません」と、神と富の両方に仕えることは難しいというのではなく、それは不可能なのだということを学んだ。私たちが仕えるべき主人とは神だけである。そして、神に仕え服従するならば、「それに加えて、これらのもの(すなわち衣食住)はすべて与えられます」という約束が実現する。本日の箇所は経済生活の原則についての教えとなっている。結びは「だから、明日のための心配は無用です」。本日は今年最後の礼拝だが、先行きどうなるかわからない不安定な時代にあって、新年をどのような心で迎えたらよいのかを知るのに、ふさわしい箇所である。このような約束が与えられているのだから、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)と、今日を精一杯生き、明日のことは心配しないで神にゆだねていきたい。「あすのための心配は無用です」は原文では命令形である。しかもきっぱりとした決断を求める文体になっている。意訳すれば、「あすのための心配は決してしてはならない」となる。続けて「あすのことはあすが心配します」と言われている。キリストは私たちが余計な心配を先取りしてしまう弱さをもっていることを知って言っておられる。だいたい私たちは、今日のことを心配するよりも明日のことを今日先取りして心配してしまう。明日のための心配は取り越し苦労である。それは決してしてはならないと命じられている。明日のことは明日にまかせ、今日するべきことに集中しなさいということである。それは「労苦はその日その日に十分あります」ということばでおぎなわれている。「心配」という思い煩いはことばを変えれば精神的苦痛である。今日の労苦だけで十分なところ、そこに余計な精神的苦痛を呼び込んで、精神的負担を重くしても益とならない。今日の労苦を神とともにせいいっぱいこなすことだけに集中したい。「労苦」ということばは、「苦しみ」という意味をもつことばだが、苦しみはその日一日に十分ある。そこに余計な苦しみを加えるというのは害にしかならない。心にも体にも悪い。私たちは明日のことを心配するのではなく、明日のことは神に信頼するのである。しばらくクリスマスシーズンということで、山上の説教の学びを中断していたが、前回は19~24節から「天に宝を積む」ということについて学んだ。24節では「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」と、つまり、神と富の両方に仕えることは不可能であるということ、ゆえに二心は捨て、神一本の心で誠心誠意神に仕えなければならないことを学んだ。私たちはキリストの教えを楽観すぎると思ってはならない。聖書は私たちに明日のことに関心を払うなとは言っていないので誤解のないようにしたい。私たちは行き当たりばったりの生き方を勧められているわけではない。私たちは明日のための計画を立てるだろう。明日のための願い事を神にすることも許されている。そうしたら、明日のことは神に信頼しておまかせするのである。神は今日の重荷をともに担ってくださるばかりか、先頭に立って導き、明日の道備えもしてくださる「あしたの神」でもある。明日のことは心配しなくていい。労苦はその日、その日に十分ある。与えられた一日の労苦を神とともにせいいっぱい取り組めば、それが明日につながる。私たちは神を信じたら労苦は無くなるなどと言われていない。労苦は今日も明日もいつもある。問題は次々起こる。すべての人の未来にトラブルはつきもの。違いは、それらに神への確かな信頼をもって直面するのか、心配をもって直面するのかのどちらか。違いはこの二つに一つ。信頼か心配か。ゆだねる信仰か思い煩いか。明日を信頼をもって迎えるのか、明日を心配をもって迎えるのか。信頼か心配か。私たちは前者を、天の父なる神にあって選び取りたいと願う。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(33節)ここで積極的命令が与えられている。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。この命令文は、原文では、継続を命じる文体となっている。よって、欄外注にあるように「求め続けなさい」という命令となる。日々、求め続けるわけである。何を?「神の国とその義とを」。私たちは先に、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えられた(6章10節)。神の国は「神の支配」を意味し、それはキリストの来臨によって始まった。そして神の国の完成はキリスト再臨の後に来る新天新地である。今、みこころは天で行われているが地では行われていない。それを妨げる力が働いている。偶像の神々が拝まれ、また不義、罪、災いがのさばっている。しかし、やがてそれらが取り除かれ、天と地が一つとされ、新しい世界が来る。御名は全地で一つとなり、神の御名だけがあがめられる。その世界の性格は不義や罪ではなく、義である。私たちは、この完成した神の国を待ち望む。神の国とその義とを第一に求める者は、神の国の前進を願って、何よりもキリストの福音を伝えることに心を砕くであろう。キリストの福音を信じる者は罪を赦され、義と認められ、キリストが王となる御国の民とされるのである。キリストの福音は御国の福音とも言われている。この福音を伝えることが一番大事なことである。次に、神の義を実践することである。ある人はこの世が社会の改革のためにとっている愚かな手段について、次のように描写している。「この世の多数派がとる手段は暴力である。権力者たちは、自分の気に入らないことが起こると、爆弾を落とし、戦車を出動させる。権力を持たない人たちは、ショーウインドーを割り、群衆にまぎれて自爆し、建物に飛行機で突っ込む。どこから見ても、どちらのやり方も、物事を変えるにはまったく有効でないと分かっていながら、同じことをし続ける」。暴力や復讐、それは何の解決にもならないし、これらは義と正反対の行動である。では私たちの求める義とは何か。キリストは5章20節において、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われ、律法学者やパリサイ人の義にまさる義の概要を5章21節以降の律法の解釈で教えてくださった。そこでは憎しみや怒りではなく赦しが説かれ、聖さが説かれ、誠実が説かれ、敵をも愛する愛が説かれていた。こうしたキリストの教えを身に着けて、地の塩、世の光として生きようとすることこそ、義を求める者の姿である。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」(31節)。「そういうわけだから」とこれまでの教えから結論を引出している。心配しているのではなく、神が養ってくださると、その確固たる信頼を持たなければならない。もちろん、怠惰を聖書は認めてはおらず、日々の糧のために働かなければならない。しかし、心配しながらそれをするのと、神を信頼してするのとでは違う。キリストはここで、あなたがたは心配するのは当然のこと、仕方ないよね、と妥協の弁は言われていない。「心配するのはやめなさい」と命じている。この命令文は、原文では、きっぱりと決断することを迫る文体となっている。よって、「心配するのはきっぱりとやめなさい」「心配するのは金輪際やめなさい」といった意訳が可能だろう。心配すべきでないことをいつまでも心配している時、また心配しそうになる時、この命令を受けとめよう。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(27節)。人間とは心配する生き物である。次の自然界の教えの前に、キリストは心配の無意味さをまず強調する。地上のいのち、肉体のいのちは、心配によって少しも延びることはない。「いのち」と訳されていることばだが、新改訳では、これまでの用法により、「年齢(年)」というニュアンスで受け止めている。よって、心配しても、あなたのいのちの長さは少しも延びませんよ、ということである。逆に縮んでしまうかもしれない。また「いのち」の欄外注の別訳では「身長」となっている。このことばは実際、他の箇所では「背(身長)」(ルカ19章3節)とも訳されている(ザアカイについて「<背>が低かったので」)。よって、心配しても、あなたの身長は少しも伸びませんよ、と受け止めることもできる。心配しても身長どころか、鼻は高くならないし、足も伸びない。25節からは、神に仕える者たちの心のあり方を「心配」ということばをキーワードにしながら説明がなされている。「神に誠心誠意仕えなければならないということはわかった。でも食べるもの、飲むもの、着るもの、その他もろもろのことで心配になる」。そうした心配が起きる者たちのために、キリストは多くのことばを使って、心配すべきではないことを教えていく。マタイの福音書には「心配する」ということばが7回使われている。そのうち6回が今日の箇所に登場している。「心配する」の原語<メリムナオー>は、思いがバラバラになるというニュアンスのことばで、ピリピ4章6節では「思い煩う」と訳されている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いとによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。これらからわかるように、ここでキリストが言われている心配とは、「あなたのことを心配していますよ」という愛の配慮からくる心配ではなく、役に立たない無用な思い煩いのことである。心配することの反対は何かと言うなら、神に信頼することである。私たちはそのことを学び取らなければならない。キリストが野のゆりを取り上げた一番の理由は、その華やかさにある(29節)。「ソロモン」はイスラエル初代の王で、栄華を窮めた古代の王である。金や銀をふんだんに使って王宮、神殿を建設した。備品、調度品を含めて、一級品が使用された。デザインも見事なものであったようである。ここでの比較は野のゆりの装いとソロモン王の衣装である。第一列王記10章にはエジプトのシェバの女王の見聞録が記されているが、しもべたちの服装でさえ見事なものであったことが伺える。ましてや王服は王冠を含めてどれほどゴージャスなものであっただろうか。しかし、「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした」と言われているので、神はいかに偉大な芸術家であるのかということがわかるし、花に対する神の多大な関心、気遣いということを考えさせられる。花が美しいのは神のおかげである。けれども、そんなことを考えないで過ごしてるのが人間である。次にキリストは、自然界から彼らに教えようとする。初めは「空の鳥」である(26節)。ここでは、食べるもの、飲むものとの関連で言われている。空の鳥は種まき、刈り入れといった農作業をしないが、飢えることはない。また空の鳥は倉に納めることもしない。すなわち、蓄えておくこともしない。けれども飢えたりはしない。なぜか?「あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」。ここでは、ただ「天の父が」と言われておらず、「あなたがたの天の父が」と言われている。だから、神はわたしの父と強く認識したい。この意味の重要性を知っていただくために、わかりやすくたとえで表現してみよう。子どもがいるある父親がいて、小鳥を飼っていて、毎日、エサを与えて養っていたとする。その父親がペットの小鳥を養っておきながら、自分の血のつながった子どもの、いのちやからだに無関心ということがあるだろうか。キリストは「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と念を押している。そこでキリストは次のように言われる。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(30節)。ここを読んで、野の花のはかないいのちということが印象づけられるが、それにしても「明日は炉に投げ込まれる」とは、どういう意味であろうか?「炉」とは粘土質の土を固めて作ったもので、主にパンを焼くために使われた。いわばオーブンである。女性がパンを焼こうとした時、近くの野に出かけ取ってきた草と野の花を乾燥させたものを燃料として使った。花のいのちは、古代イスラエルではより短く感じられる。そのいのちはまことにはかない。炉に投げ込まれなくとも、熱風で一瞬にして枯れてしまう土地柄でもある。そんな花であっても、神は最高のセンスで着飾ってくださる。「ましてや、あなたがたによくしてくださらないことがあろうか。信仰の薄い者たち」。神は神を父と仰ぐ私たちを裸のままに放置されることはありえない。神は野の花以上に私たちに価値を見出してくださっている。けれども、心配してしまう私たち。そんな私たちは「信仰の薄い者たち」と言われている。「信仰が無い」と言われていないところが救いではある。しかし、このままでいいわけではない。キリストは「信仰の薄い者たち」と、マタイの福音書では、この他に3回言われている(「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」マタイ8章26節、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」14章31節、「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか」16章8節)。恐れなくていいのに恐れる、心配しなくていいのに心配する。そんな時、「信仰の薄い人」と言われてしまう。