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[mixi]『ノルウェイの森』を読み返す人 愛してさえいなかった 「直子は僕のことを愛してさえいなかった・・」と。 直子は、僕のことをどう思っていたのでしょうか・・。 書籍・文庫 - 第1章の終わりで主人公の「僕」が次のように言います。 「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」 この本を10年以上、何 … 『ノルウェイの森』(ノルウェイのもり)は、トラン・アン・ユン脚本・監督による日本映画。2010年 12月11日に公開された。. 大変興味深く読ませていただきました。この物語はおっしゃるように、「あちら」と「こちら」の世界の話ですよね。その象徴は直子と緑です。僕がはっと目覚めたのは、「井戸」の話です。村上春樹の世界において、常に「井戸」は問題のテーマになります。心的世界の内奥と地中世界の内奥が繋がっていることの、やはりこれも象徴です。直子がこれを語るのは、自分と重ね合わせていた…新しい発見を導いてくださって、ありがとうございます。ワタナベ君は、当時、直子のことを「ほとんど」理解していませんよね? 肩の力を抜きなよ、という言葉が直子をひどく傷つけてしまいます。また、彼は直子の病がよくなっていっていると勝手に思い込んでいる。直子は確かに、非常に孤独であったでしょう。ワタナベ君の回想記は、要するに、直子を理解できなかったことへの(つまり、本当の愛の形を知らなかったことへの)痛烈な自己反省でもあるでしょう。「愛してさえいなかった」という表現は、実は、彼自身が、本当に直子を愛することができていなかったことの、裏返しかもしれません。かなり考えさせられました。もっと考えて見ます。重ねて、ありがとうございました。第1章の終わりで主人公の「僕」が次のように言います。「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」この本を10年以上、何度も読み返していますが、村上作品の中でもとりわけこの箇所だけ、どうしても判然としません。本全体を読んでも、直子は直子なりにワタナベ君のことを(キズキしか本当は愛していなかったとしても)愛していたと思うからです。この本の特徴の一つは主人公の「よく分からない」という言葉です。全体的にこの「よく分からない」という不可解さの雰囲気が基調となっています。若いときにありがちな将来への不安、アイデンティティの不確かさなどから、それは発せられるものでしょう。最後の「いったいここはどこなんだ?」というセリフがそれを象徴的に表しています。さて、しかし、先の引用は「今の僕にはわかる」という確信から発せられています。直子が彼を愛して「さえ」いなかったのは「僕」には疑いのない事実のようです。問題はこの「さえ」なのです。「愛していなかったからだ」ではなく「愛して『さえ』いなかったからだ」。この言葉に込められた意味を、どうしてもつかみ損ねてしまいます。つまり、自分ことを忘れないで欲しいといった直子の言葉が、愛して「さえ」いなかった、と結論付けられることに違和感を覚えてしまうのです。これは何故でしょうか?皆さんのご意見を仰ぐことができれば幸いです。よろしくお願いします。この場をお借りしてみなさまに御礼申し上げます。僕の質問は、自分の予想に反して、自分に帰ってきました。これもひとえに皆様のおかげであると思います。村上春樹自身が常に言うように、作品の分析や解釈はその人のものであり、何が間違っていて何が正しいということはありません。なぜならば、そうすることによって作品が固定化されてしまい、すると芸術作品は新たな「読み」を疎外してしまうのです。僕自身も自分の考えを固定化しようとは思いません。いま、あくまでも暫定的に出た答えであり、そしてそれは常に自分に問われ続けなければなりません。直子の存在と愛の形というテーマは僕が最初に抱いていた狭い世界から、もっと深く広いものへと変わりました。直子は本当に愛していなかったのか? 答えは、決定的な答えは出ないということです。その答えは僕が一生かけて探していくのだと思います。質問をしておいて、身も蓋もない答えですみません。しかし、ここで得たものは、繰り返しますが、僕の狭い考えの幅が大きく広がったことです。ご回答くださった皆様、重ねて御礼申し上げます。なるほどなあ、と思いながら興味深く読ませていただきました。「愛とは何か」というその点が人によって基準が異なる、という事をおもってはいました。toturenzuさんのおっしゃるように、愛とは確かにそのような面があると思うのです。しかし、本当に、直子はみじんも愛さなかったのでしょうか。僕の疑問は常に、10年前から、何も変わっていません。「本当の愛」とは何かを誰かが誰かに言葉として伝えることが可能なのか、という点で考えれば、愛してさえいないという「僕」の断言はとても悲しく、実は一番哀しいところはそこではないか、と思うくらいです。>主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。これが愛の形の一つでないのなら、いったい何なのでしょうか? そこまで直子は冷徹だったのでしょうか。僕の疑問はそういうところにもあります。>直子は自分でも死を選択するであろうことを知っていたので、自分の生きていた記憶を誰かに残したかった、とも思います。これです。どうして死に行く人が誰かの心に残ろうとして死ぬことを望むときに、愛して「さえ」いなかった人の心に残ろうとするのでしょう。「覚えていて」というセリフは、レイコさんでもご両親でも誰でも良かったはずはないと思います。例えばハツミさんは、永沢さんの心に残ろうとして死んだ、という意見もありますが、僕はなかなか同意できせん。そんなに単純ではなく、もっと複雑な心の動きが彼女にもあったように思われます。けっきょく、「愛とは何か」という問題に収斂されていくのかもしれませんが、それだと「人によってその考えは違う」ということになってしまい、僕が本来質問している内容とは変わってきますので、この辺で。ご回答ありがとうございました。どうもご回答ありがとうございます。>自殺願望のある人間が自分に関する記憶の抹消まで求めているとは限りませんよ。おっしゃるとおりです。これは僕の思い込みだったと思います。自殺が「肉」と「魂」のうち、肉の殺人であることに気付きました。そしてなぜ残さなければならなかった相手がワタナベ君だったかというと、それはキズキを含めて彼が3人を共有していた時間があったからなのですよね。しかしです。おそらく最後の謎なのですが…愛してさえもいなかった人に、自分(とおそらくその恋人)の記憶を忘れないで欲しいと伝えるなんて…どうしてそういう酷なことができるのでしょうか? それともこれは酷なことではないのですか? 人生とは時に非情で、そういうものだということですか?この世は悪的なものに満ちています。憎悪や狂気から戦争やテロがおきます。殺人も起きる。それは、理解できます。一方で善的なものや愛があるからこそ、調和が取れる。しかし、それとは全然違って、愛のかけらもなく、辛い思いを背負わせて生きらせることなんてあるのでしょうか? 悪でもなく、善でもなく、それはいったい何でしょう?この作品は色々な点で考えさせられます。全体に虚しい雰囲気が(死の予感のような)漂う中で、ミドリだけが人間らしくて、唯一共感できる登場人物でした。質問者様は<直子は直子なりにワタナベ君のことを愛していたと思うからです。愛しているように感じましたか?わたしには愛している人に対するような扱いで無かったように感じます。性交渉を持つにしても愛の前提でするのでなくて、形(性交渉する)だけが大切に思えました。主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。死に向かうからか、投げやりで、直子には全く共感できなくて苛立たしささえ覚えます。直子は自分でも死を選択するであろうことを知っていたので、自分の生きていた記憶を誰かに残したかった、とも思います。全てがそのためだけにあるようにも思えるので虚しさが漂うのかもしれない。それは愛とは呼べません。それに愛している人がいるなら生きていたいと思うはず。愛している人と永遠に一緒にいたい、のが本当だと思うからです。あくまでも個人的な感想です。感想の一つとして受け止めて頂ければ幸いです。私も「ノルウェイの森」は大好きな作品ですけど、なんだか難しかったですね。ずいぶん前に一度読んだだけなので記憶もおぼろげなんですけど(^_^;)> 「忘れないで」とどうしてワタナベ君に伝えなくてはならなかったのか。> 「忘れて欲しい」というのなら分かります。(No1さんへのお礼より抜粋)自殺願望のある人間が自分に関する記憶の抹消まで求めているとは限りませんよ。この世は辛くて生き難い。だから、肉体は亡んでもせめて誰かの記憶の中でだけは存在し続けたいと願う人もいますから。「愛して『さえ』いなかったからだ」としたのは、no2さんのおっしゃる通り、やはり反語的な作用があると思います。そして、直子の「忘れないで」という言葉には自分のことだけではなく、キズキのことも含まれているんではないでしょうかね。だからその相手が「僕」である必要があるんではないでしょうか。「人の死は2度ある。一度目は肉体が亡んだ時、二度目は人の記憶から忘れ去られた時」というような言葉がありますよね。直子にはキズキの思い出を継承していく力が無かった。だから、同じ時間を共有し、自分たちの一番輝いていた時を知る「僕」にそれを継承させた、ということも考えられるのではないかと。直子にとって自分が死ぬということは、キズキをも再び死ぬ、という意味が含まれていたんではないでしょうか。どこまでも基本にはキズキへの愛があり、それらを含めて自分たちのことを「忘れないで」と言われたのだとしたら、「「愛して『さえ』いない」(愛していてくれてたのならその重圧にも耐えられるのに)という意味になるのでは・・・・。たった一人逝き残されて、キズキと直子の両方の記憶を任されるというのは、せめて「愛してくれていたのだったら・・・」という思いが込められているんじゃないですかね。なんだかとんちんかんな感想かもしれません。なにぶんおぼろげな記憶なんで、見当違いな回答だったらすいません。(^_^;)たいへん興味深く読ませていただきました。そして少しずつ理解できそうです。理解というのは2種類あって、腑に落ちる理解と、長い時間をかけて理解する(まさにワタナベ君ですが)、僕は今回は後者です。>好きだったのだとは思いますが、目の前にたまたまいる思い出を共有する知人を好ましく思うことと、一人の異性を深く愛することは全然別です。気付いたのですが、おそらく僕が問題にしているのは、「愛」の普遍性と偏在性についてです。僕は無宗教ですが、僕が言う愛とは、キリスト教の愛に近いように思います。その辺の齟齬が理解を阻んでいたのかもしれません。人は恋愛感情とは別に他者を深く愛せる存在であると考えます。これは個人の問題なので、横においておきます。新たな問題は、愛してさえいなかった、つまりは好きでもなんでもなかった、ということにシフトしそうです。もしそうならば、この物語の哀しさはもっともっと増しそうです。そしてafter 8さんが指摘されるように、このワタナベ君の一言は小説の全体のトーン、あるいは読みの方向性を支配する上でこの上もなく重要なパッセージになりそうです。僕は男ながら、直子の立場がわかるつもりだったのです。ワタナベ君がよく直子のことを理解していないこともわかっていたし、キズキ以外を愛していない、あるいは愛せなかったこともわかります。しかしそこには直子の立場に立ってみても「友愛」という意味での愛があったように思われていました。しかし、直子が彼のことをみじんも愛していなかったのだとすれば、本当にまったく救いようがない悲劇ですね。僕はそんなことが起きて欲しくない、と10年も前から願い続けていたのかもしれません。でもそのことをいったん受け入れて、さらに自問自答をし続けることでしょう。しかし、やはりまだ腑に落ちないことが。「忘れないで」とどうしてワタナベ君に伝えなくてはならなかったのか。「忘れて欲しい」というのなら、分かります。自殺はこの世から消えてなくなることであり、つまりはワタナベ君のように、やはり人は「忘れて行く生き物」だからです。僕が忘れていくことを直子は知っていた…「だからこそ」忘れないで、と伝える。僕は「自殺」という死への能動的な行為がもたらすさまざまなことをきちんとまだまだ理解していないようです。さまざまな指摘をありがとうございました。お礼をありがとうございます。やはりこの作品は「死」が題材なのかな、と考えさせられました。自殺は結局のところ逃避ですよね。抱えてる問題を解決できない、辛くて抱えていられない、それならば全て投げ出してしまえ、死を選ぶ。多分、直子はキズキの死を受け入れることができなくて、かといって新しく人生をやり直す方向にもいけなくて、死を選んでしまった。それでも覚えていて、と「それでも」が付くのは主人公の僕に対して最初から詫びているんじゃないかと思う。「あなたにわたしと同じような辛いめに合わせてしまうことにきっとなってしまう。こんな選択をしてしまうわたしをどうか許して欲しい。そして、それでもわたしやキズキの事を一番良く知っているあなたに覚えていて欲しい」直子は自分が死を選ぶことを死から逃れられないことに気づき、自分を愛してくれる僕に自分と同じような愛する者を失うという悲しみを経験させてしまう事を解っていて、許して欲しかったのじゃないでしょうか。死んでしまうけれど、キズキと直子の事を覚えていて欲しいと。死は逃避だと書いたけど、本当に死にたい訳じゃないと思うのですよ。問題が解決できれば、怖くて恐ろしい死など選択しない。でもキズキが死んでしまった時点で解決方法など無くなってしまった。でも、こんな自分でも生きていた証しのようなモノを誰かに残しておきたい。ほんの少しの理性がもたらした生への執着かもしれません。僕ももしかすると直子の死で立ち直れなければ死に向かっていたかもしれません。それを支えたのが緑や様々な生き方を僕に見せる人達。最後の緑に電話するシーンが救いです。いつも緑が僕を「死」から引っ張りあげてくれてる存在なんでしょうね。人の生や死に善悪はあるのかな。人はやはり自分のことしか考えられない生き物なのかもしれませんね。直子はワタナベ君なら全ての事を受け入れ、消化し、なんらかの答えを出してくれる存在と思っていたのかもしれません。独断な感想で、すいません。下のほうの他の方からの質問にも書いたとおり(jojo-jojo-jojoさんも回答されていますね)、最近読み返していないので曖昧な印象で、ですが。私も直子は、「僕」のことを愛してはいなかったのだろうと思います。好きだったのだとは思いますが、目の前にたまたまいる思い出を共有する知人を好ましく思うことと、一人の異性を深く愛することは全然別です。>問題はこの「さえ」なのです。「愛していなかったからだ」ではなく「愛して『さえ』いなかったからだ」。この言葉に込められた意味を、どうしてもつかみ損ねてしまいます。「愛していてくれていたらまだしも良かったのに(愛してくれてさえいない)」という反語的に私は感じます。少しでも本物の愛情の、欠片でもいいからあったなら、と。・愛していなかったからだ。・愛してさえいなかったからだ。の2つなら、後者のほうがずっと辛いと思います。直子の態度が優しいだけに、尚更。たとえば、直子は微笑かけてくれる。でも直子は実のところ、自分を見てくれてはいないし、心ここにあらずだ。「僕」は直子の(肉体的な)手に触れることができる。でも彼女の存在の本体・・・心なのか、魂なのか何なのか・・・・には決して触れることができないし、彼女を捕まえることもできない。彼女は自分を愛してなんかいない。彼女は別の世界に生きているような人。自分は彼女の心を手に入れることはできない、永遠に。それなのに、「忘れないで」なんて言われるのは、「僕」にとっては残酷なことではなかろうか。愛情を抱かれてもいないのに、心ここにあらずで、ぜーったいに手が届かないのに、「忘れないでね」と言われたわけですよね。>>主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。>>これが愛の形の一つでないのなら、いったい何なのでしょうか? そこまで直子は冷徹だったのでしょうか。愛がこもっていて与えるなら愛の形の一つだと思いますが、「直子は僕を愛していなかった」と捉えているNo.1さんや私から見ると、愛ではないんですよ。冷徹なのではなく、力無くただ流れに任せているだけ。僕に対してそれほどの気持ちも無いのに。精神を病んでいて、どうしようもなく死に惹かれていた(魅入られていた?)んだろうと思いますが・・・引き潮のように。何となくは解るつもりなんですが(もちろん自分勝手な解釈ですが)、言葉で説明しようとすると難しいです。ところで、質問者さんは、直子が僕を彼女なりに愛していたと思ってらっしゃるんですよね。でしたら一度試しに、「直子は僕を嫌ってはいないが、愛してはいない」ぐらいの前提で読んでみてはどうでしょうか???そんな“試しに”が有効かどうかは分かりませんが、あくまでも試しに。直子は愛していないという前提で読むのと、直子は愛しているという前提で読むのでは、捉え方が違うかもしれない。再度のご回答ありがとうございます。>人の生や死に善悪はあるのかな。この言葉に尽きます。この世に善悪は歴然とあると思います。しかし、僕も、生死に善悪はないと思います。死んでしまえば我々は、来た場所へと帰るだけです。直子の存在は、やってきて、去った人、それだけかもしれません。単にそれだけではなく、「確実に」そうだった、ということです。「ノルウェイの森」を読んでからもうずいぶん経ったので、こまかい部分は忘れていますが、第一章はすごく好きな部分です。(小説全体は好きかと聞かれたら「?」なんですけれど)特に最後の「何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」この一文が衝撃的で、読者の心は一気に物語へ引き込まれませんか?私は一度読み終えて二度目読んだとき、ここで泣いてしまいましたね。主人公は直子を愛していて直子の心に近づき理解しようとするが、できない。直子は誰も愛せないほど深く病んでいたのだと思います。直子はすでに「あちら側の」人間だから。どこにあるか誰も知らない、しかし確実に存在する深く恐ろしい井戸の話が出てきます。直子の心は結局、そこに落ちてしまったのでしょうね。一人ぼっちでじわじわ苦しみながら誰にも気づかれず死んでいくのが恐ろしかったのでしょう。だから「私が存在していたことを覚えていて欲しい」という願いを自分が「愛してさえいない」人間に託さなければならなかった。それほど直子という女性は孤独だったということなのでしょう。そして「忘れられるわけがない」と言ったのに記憶は徐々に薄らいでいってしまう…哀しいですね。細かい事実を忘れることで浮かび上がってくる真実というものがある。それに気づくということも哀しいことです。「さえ」という一言にこうした哀しみがぎゅっと凝縮されているように思います。 村上 春樹『ノルウェイの森 下』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約4797件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 大ベストセラーとして知られる、村上春樹の『ノルウェイの森』。死と再生を描いた内容は素晴らしく、文章も儚くも美しいもので構成されていますが、一方で読み手を選ぶ小説ということも事実です。この記事では、そうした点を徹底解説しています! 長らく続けてきました、ノルウェイの森 勝手に配役は今日で最終回。 レイコさんの話だけに出てくる少女です。 つまり、この少女は小説で実物がお話のメインに出てくるわけじゃないです。 ワタナベにも会わないし、勿論、直子とも何の関係もありません。 こういった内容のため、大ベストセラーではありますが、特に若いうちに読むべき本だと思います。と書いているように、ターゲット層はかなり狭いと思ってもらってもよいでしょう。最終的に直子は死に、そのまま同時期に交流を重ねていた大学の同級生・緑を選ぶことになります。世間と今一つ馴染めず、日々を無為に過ごしがちな大学生を主人公とし、ヒロインの心は高校時代のある地点に立ち止まったまま、体だけが生きています。僕は1969年、もうすぐ20歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。主人公の「私」は、失われた親友の彼女・直子と親しくするようになるのですが、彼女はやがて精神を病んでしまいます。実際、著者の村上春樹もこの小説が売れたことで「ひどく孤独になった」と語っているくらいですし。暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。おそらくハマり方は二通りあり、「何だか世間から浮いているような気がする若者」が内容に共感する、または村上春樹の文章や世界観が好みにストライク、というものです。そのため、これもやはり事実だけをみてしまうと、すごく一本調子で平坦なストーリーに感じられるでしょう。これも、主人公は流されるがままに行なっているだけで、主体性はありません。言うなれば「モテる」男でもありますが、モテる理由も詳しくは描かれず、その点もストーリーから説得力を失わせています。直子との再会をはじめとする出来事は、村上春樹流の表現でサラリと流されてしまうのです。そこにあるのは、ただ雪が降り積もるように重なっていく事実だけなのです。さらに、直子と同じ療養施設で過ごしていたレイコとも身体を重ねました。また、ストーリーに大きな出来事はありますが、それがあまり強調されて描かれることはありません。しかし、一方でいわゆる「ハルキスト」でもないため、好きな小説だからこそ最初のほうはガンガン批判もしていきます。一方で称賛も欠かしていませんので、中立的な視点で描くように心がけた結果と思ってください。まず、この小説のストーリーには説得力に欠ける部分があるのは確かです。この本が売れた理由は、恐らく内容そのものではなく、本が発売された時代背景が大きく作用していると感じています。逆にいうならば、上記にあてはまらない読者が読むと、恐ろしくつまらないと思います。普段本を読まない方が気楽に読み始めると、思わず投げ出したくなるような作品でもあります。このように、「私」の行動は事実だけを書きだすと「色に耽っている」だけなのです。「私」の一人称視点で進んでいく物語は、一見するとすごく平坦に展開されていきます。
[mixi]『ノルウェイの森』を読み返す人 愛してさえいなかった 「直子は僕のことを愛してさえいなかった・・」と。 直子は、僕のことをどう思っていたのでしょうか・・。 書籍・文庫 - 第1章の終わりで主人公の「僕」が次のように言います。 「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」 この本を10年以上、何 … 『ノルウェイの森』(ノルウェイのもり)は、トラン・アン・ユン脚本・監督による日本映画。2010年 12月11日に公開された。. 大変興味深く読ませていただきました。この物語はおっしゃるように、「あちら」と「こちら」の世界の話ですよね。その象徴は直子と緑です。僕がはっと目覚めたのは、「井戸」の話です。村上春樹の世界において、常に「井戸」は問題のテーマになります。心的世界の内奥と地中世界の内奥が繋がっていることの、やはりこれも象徴です。直子がこれを語るのは、自分と重ね合わせていた…新しい発見を導いてくださって、ありがとうございます。ワタナベ君は、当時、直子のことを「ほとんど」理解していませんよね? 肩の力を抜きなよ、という言葉が直子をひどく傷つけてしまいます。また、彼は直子の病がよくなっていっていると勝手に思い込んでいる。直子は確かに、非常に孤独であったでしょう。ワタナベ君の回想記は、要するに、直子を理解できなかったことへの(つまり、本当の愛の形を知らなかったことへの)痛烈な自己反省でもあるでしょう。「愛してさえいなかった」という表現は、実は、彼自身が、本当に直子を愛することができていなかったことの、裏返しかもしれません。かなり考えさせられました。もっと考えて見ます。重ねて、ありがとうございました。第1章の終わりで主人公の「僕」が次のように言います。「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」この本を10年以上、何度も読み返していますが、村上作品の中でもとりわけこの箇所だけ、どうしても判然としません。本全体を読んでも、直子は直子なりにワタナベ君のことを(キズキしか本当は愛していなかったとしても)愛していたと思うからです。この本の特徴の一つは主人公の「よく分からない」という言葉です。全体的にこの「よく分からない」という不可解さの雰囲気が基調となっています。若いときにありがちな将来への不安、アイデンティティの不確かさなどから、それは発せられるものでしょう。最後の「いったいここはどこなんだ?」というセリフがそれを象徴的に表しています。さて、しかし、先の引用は「今の僕にはわかる」という確信から発せられています。直子が彼を愛して「さえ」いなかったのは「僕」には疑いのない事実のようです。問題はこの「さえ」なのです。「愛していなかったからだ」ではなく「愛して『さえ』いなかったからだ」。この言葉に込められた意味を、どうしてもつかみ損ねてしまいます。つまり、自分ことを忘れないで欲しいといった直子の言葉が、愛して「さえ」いなかった、と結論付けられることに違和感を覚えてしまうのです。これは何故でしょうか?皆さんのご意見を仰ぐことができれば幸いです。よろしくお願いします。この場をお借りしてみなさまに御礼申し上げます。僕の質問は、自分の予想に反して、自分に帰ってきました。これもひとえに皆様のおかげであると思います。村上春樹自身が常に言うように、作品の分析や解釈はその人のものであり、何が間違っていて何が正しいということはありません。なぜならば、そうすることによって作品が固定化されてしまい、すると芸術作品は新たな「読み」を疎外してしまうのです。僕自身も自分の考えを固定化しようとは思いません。いま、あくまでも暫定的に出た答えであり、そしてそれは常に自分に問われ続けなければなりません。直子の存在と愛の形というテーマは僕が最初に抱いていた狭い世界から、もっと深く広いものへと変わりました。直子は本当に愛していなかったのか? 答えは、決定的な答えは出ないということです。その答えは僕が一生かけて探していくのだと思います。質問をしておいて、身も蓋もない答えですみません。しかし、ここで得たものは、繰り返しますが、僕の狭い考えの幅が大きく広がったことです。ご回答くださった皆様、重ねて御礼申し上げます。なるほどなあ、と思いながら興味深く読ませていただきました。「愛とは何か」というその点が人によって基準が異なる、という事をおもってはいました。toturenzuさんのおっしゃるように、愛とは確かにそのような面があると思うのです。しかし、本当に、直子はみじんも愛さなかったのでしょうか。僕の疑問は常に、10年前から、何も変わっていません。「本当の愛」とは何かを誰かが誰かに言葉として伝えることが可能なのか、という点で考えれば、愛してさえいないという「僕」の断言はとても悲しく、実は一番哀しいところはそこではないか、と思うくらいです。>主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。これが愛の形の一つでないのなら、いったい何なのでしょうか? そこまで直子は冷徹だったのでしょうか。僕の疑問はそういうところにもあります。>直子は自分でも死を選択するであろうことを知っていたので、自分の生きていた記憶を誰かに残したかった、とも思います。これです。どうして死に行く人が誰かの心に残ろうとして死ぬことを望むときに、愛して「さえ」いなかった人の心に残ろうとするのでしょう。「覚えていて」というセリフは、レイコさんでもご両親でも誰でも良かったはずはないと思います。例えばハツミさんは、永沢さんの心に残ろうとして死んだ、という意見もありますが、僕はなかなか同意できせん。そんなに単純ではなく、もっと複雑な心の動きが彼女にもあったように思われます。けっきょく、「愛とは何か」という問題に収斂されていくのかもしれませんが、それだと「人によってその考えは違う」ということになってしまい、僕が本来質問している内容とは変わってきますので、この辺で。ご回答ありがとうございました。どうもご回答ありがとうございます。>自殺願望のある人間が自分に関する記憶の抹消まで求めているとは限りませんよ。おっしゃるとおりです。これは僕の思い込みだったと思います。自殺が「肉」と「魂」のうち、肉の殺人であることに気付きました。そしてなぜ残さなければならなかった相手がワタナベ君だったかというと、それはキズキを含めて彼が3人を共有していた時間があったからなのですよね。しかしです。おそらく最後の謎なのですが…愛してさえもいなかった人に、自分(とおそらくその恋人)の記憶を忘れないで欲しいと伝えるなんて…どうしてそういう酷なことができるのでしょうか? それともこれは酷なことではないのですか? 人生とは時に非情で、そういうものだということですか?この世は悪的なものに満ちています。憎悪や狂気から戦争やテロがおきます。殺人も起きる。それは、理解できます。一方で善的なものや愛があるからこそ、調和が取れる。しかし、それとは全然違って、愛のかけらもなく、辛い思いを背負わせて生きらせることなんてあるのでしょうか? 悪でもなく、善でもなく、それはいったい何でしょう?この作品は色々な点で考えさせられます。全体に虚しい雰囲気が(死の予感のような)漂う中で、ミドリだけが人間らしくて、唯一共感できる登場人物でした。質問者様は<直子は直子なりにワタナベ君のことを愛していたと思うからです。愛しているように感じましたか?わたしには愛している人に対するような扱いで無かったように感じます。性交渉を持つにしても愛の前提でするのでなくて、形(性交渉する)だけが大切に思えました。主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。死に向かうからか、投げやりで、直子には全く共感できなくて苛立たしささえ覚えます。直子は自分でも死を選択するであろうことを知っていたので、自分の生きていた記憶を誰かに残したかった、とも思います。全てがそのためだけにあるようにも思えるので虚しさが漂うのかもしれない。それは愛とは呼べません。それに愛している人がいるなら生きていたいと思うはず。愛している人と永遠に一緒にいたい、のが本当だと思うからです。あくまでも個人的な感想です。感想の一つとして受け止めて頂ければ幸いです。私も「ノルウェイの森」は大好きな作品ですけど、なんだか難しかったですね。ずいぶん前に一度読んだだけなので記憶もおぼろげなんですけど(^_^;)> 「忘れないで」とどうしてワタナベ君に伝えなくてはならなかったのか。> 「忘れて欲しい」というのなら分かります。(No1さんへのお礼より抜粋)自殺願望のある人間が自分に関する記憶の抹消まで求めているとは限りませんよ。この世は辛くて生き難い。だから、肉体は亡んでもせめて誰かの記憶の中でだけは存在し続けたいと願う人もいますから。「愛して『さえ』いなかったからだ」としたのは、no2さんのおっしゃる通り、やはり反語的な作用があると思います。そして、直子の「忘れないで」という言葉には自分のことだけではなく、キズキのことも含まれているんではないでしょうかね。だからその相手が「僕」である必要があるんではないでしょうか。「人の死は2度ある。一度目は肉体が亡んだ時、二度目は人の記憶から忘れ去られた時」というような言葉がありますよね。直子にはキズキの思い出を継承していく力が無かった。だから、同じ時間を共有し、自分たちの一番輝いていた時を知る「僕」にそれを継承させた、ということも考えられるのではないかと。直子にとって自分が死ぬということは、キズキをも再び死ぬ、という意味が含まれていたんではないでしょうか。どこまでも基本にはキズキへの愛があり、それらを含めて自分たちのことを「忘れないで」と言われたのだとしたら、「「愛して『さえ』いない」(愛していてくれてたのならその重圧にも耐えられるのに)という意味になるのでは・・・・。たった一人逝き残されて、キズキと直子の両方の記憶を任されるというのは、せめて「愛してくれていたのだったら・・・」という思いが込められているんじゃないですかね。なんだかとんちんかんな感想かもしれません。なにぶんおぼろげな記憶なんで、見当違いな回答だったらすいません。(^_^;)たいへん興味深く読ませていただきました。そして少しずつ理解できそうです。理解というのは2種類あって、腑に落ちる理解と、長い時間をかけて理解する(まさにワタナベ君ですが)、僕は今回は後者です。>好きだったのだとは思いますが、目の前にたまたまいる思い出を共有する知人を好ましく思うことと、一人の異性を深く愛することは全然別です。気付いたのですが、おそらく僕が問題にしているのは、「愛」の普遍性と偏在性についてです。僕は無宗教ですが、僕が言う愛とは、キリスト教の愛に近いように思います。その辺の齟齬が理解を阻んでいたのかもしれません。人は恋愛感情とは別に他者を深く愛せる存在であると考えます。これは個人の問題なので、横においておきます。新たな問題は、愛してさえいなかった、つまりは好きでもなんでもなかった、ということにシフトしそうです。もしそうならば、この物語の哀しさはもっともっと増しそうです。そしてafter 8さんが指摘されるように、このワタナベ君の一言は小説の全体のトーン、あるいは読みの方向性を支配する上でこの上もなく重要なパッセージになりそうです。僕は男ながら、直子の立場がわかるつもりだったのです。ワタナベ君がよく直子のことを理解していないこともわかっていたし、キズキ以外を愛していない、あるいは愛せなかったこともわかります。しかしそこには直子の立場に立ってみても「友愛」という意味での愛があったように思われていました。しかし、直子が彼のことをみじんも愛していなかったのだとすれば、本当にまったく救いようがない悲劇ですね。僕はそんなことが起きて欲しくない、と10年も前から願い続けていたのかもしれません。でもそのことをいったん受け入れて、さらに自問自答をし続けることでしょう。しかし、やはりまだ腑に落ちないことが。「忘れないで」とどうしてワタナベ君に伝えなくてはならなかったのか。「忘れて欲しい」というのなら、分かります。自殺はこの世から消えてなくなることであり、つまりはワタナベ君のように、やはり人は「忘れて行く生き物」だからです。僕が忘れていくことを直子は知っていた…「だからこそ」忘れないで、と伝える。僕は「自殺」という死への能動的な行為がもたらすさまざまなことをきちんとまだまだ理解していないようです。さまざまな指摘をありがとうございました。お礼をありがとうございます。やはりこの作品は「死」が題材なのかな、と考えさせられました。自殺は結局のところ逃避ですよね。抱えてる問題を解決できない、辛くて抱えていられない、それならば全て投げ出してしまえ、死を選ぶ。多分、直子はキズキの死を受け入れることができなくて、かといって新しく人生をやり直す方向にもいけなくて、死を選んでしまった。それでも覚えていて、と「それでも」が付くのは主人公の僕に対して最初から詫びているんじゃないかと思う。「あなたにわたしと同じような辛いめに合わせてしまうことにきっとなってしまう。こんな選択をしてしまうわたしをどうか許して欲しい。そして、それでもわたしやキズキの事を一番良く知っているあなたに覚えていて欲しい」直子は自分が死を選ぶことを死から逃れられないことに気づき、自分を愛してくれる僕に自分と同じような愛する者を失うという悲しみを経験させてしまう事を解っていて、許して欲しかったのじゃないでしょうか。死んでしまうけれど、キズキと直子の事を覚えていて欲しいと。死は逃避だと書いたけど、本当に死にたい訳じゃないと思うのですよ。問題が解決できれば、怖くて恐ろしい死など選択しない。でもキズキが死んでしまった時点で解決方法など無くなってしまった。でも、こんな自分でも生きていた証しのようなモノを誰かに残しておきたい。ほんの少しの理性がもたらした生への執着かもしれません。僕ももしかすると直子の死で立ち直れなければ死に向かっていたかもしれません。それを支えたのが緑や様々な生き方を僕に見せる人達。最後の緑に電話するシーンが救いです。いつも緑が僕を「死」から引っ張りあげてくれてる存在なんでしょうね。人の生や死に善悪はあるのかな。人はやはり自分のことしか考えられない生き物なのかもしれませんね。直子はワタナベ君なら全ての事を受け入れ、消化し、なんらかの答えを出してくれる存在と思っていたのかもしれません。独断な感想で、すいません。下のほうの他の方からの質問にも書いたとおり(jojo-jojo-jojoさんも回答されていますね)、最近読み返していないので曖昧な印象で、ですが。私も直子は、「僕」のことを愛してはいなかったのだろうと思います。好きだったのだとは思いますが、目の前にたまたまいる思い出を共有する知人を好ましく思うことと、一人の異性を深く愛することは全然別です。>問題はこの「さえ」なのです。「愛していなかったからだ」ではなく「愛して『さえ』いなかったからだ」。この言葉に込められた意味を、どうしてもつかみ損ねてしまいます。「愛していてくれていたらまだしも良かったのに(愛してくれてさえいない)」という反語的に私は感じます。少しでも本物の愛情の、欠片でもいいからあったなら、と。・愛していなかったからだ。・愛してさえいなかったからだ。の2つなら、後者のほうがずっと辛いと思います。直子の態度が優しいだけに、尚更。たとえば、直子は微笑かけてくれる。でも直子は実のところ、自分を見てくれてはいないし、心ここにあらずだ。「僕」は直子の(肉体的な)手に触れることができる。でも彼女の存在の本体・・・心なのか、魂なのか何なのか・・・・には決して触れることができないし、彼女を捕まえることもできない。彼女は自分を愛してなんかいない。彼女は別の世界に生きているような人。自分は彼女の心を手に入れることはできない、永遠に。それなのに、「忘れないで」なんて言われるのは、「僕」にとっては残酷なことではなかろうか。愛情を抱かれてもいないのに、心ここにあらずで、ぜーったいに手が届かないのに、「忘れないでね」と言われたわけですよね。>>主人公の「僕」が求めているから、与えているようにも感じました。>>これが愛の形の一つでないのなら、いったい何なのでしょうか? そこまで直子は冷徹だったのでしょうか。愛がこもっていて与えるなら愛の形の一つだと思いますが、「直子は僕を愛していなかった」と捉えているNo.1さんや私から見ると、愛ではないんですよ。冷徹なのではなく、力無くただ流れに任せているだけ。僕に対してそれほどの気持ちも無いのに。精神を病んでいて、どうしようもなく死に惹かれていた(魅入られていた?)んだろうと思いますが・・・引き潮のように。何となくは解るつもりなんですが(もちろん自分勝手な解釈ですが)、言葉で説明しようとすると難しいです。ところで、質問者さんは、直子が僕を彼女なりに愛していたと思ってらっしゃるんですよね。でしたら一度試しに、「直子は僕を嫌ってはいないが、愛してはいない」ぐらいの前提で読んでみてはどうでしょうか???そんな“試しに”が有効かどうかは分かりませんが、あくまでも試しに。直子は愛していないという前提で読むのと、直子は愛しているという前提で読むのでは、捉え方が違うかもしれない。再度のご回答ありがとうございます。>人の生や死に善悪はあるのかな。この言葉に尽きます。この世に善悪は歴然とあると思います。しかし、僕も、生死に善悪はないと思います。死んでしまえば我々は、来た場所へと帰るだけです。直子の存在は、やってきて、去った人、それだけかもしれません。単にそれだけではなく、「確実に」そうだった、ということです。「ノルウェイの森」を読んでからもうずいぶん経ったので、こまかい部分は忘れていますが、第一章はすごく好きな部分です。(小説全体は好きかと聞かれたら「?」なんですけれど)特に最後の「何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」この一文が衝撃的で、読者の心は一気に物語へ引き込まれませんか?私は一度読み終えて二度目読んだとき、ここで泣いてしまいましたね。主人公は直子を愛していて直子の心に近づき理解しようとするが、できない。直子は誰も愛せないほど深く病んでいたのだと思います。直子はすでに「あちら側の」人間だから。どこにあるか誰も知らない、しかし確実に存在する深く恐ろしい井戸の話が出てきます。直子の心は結局、そこに落ちてしまったのでしょうね。一人ぼっちでじわじわ苦しみながら誰にも気づかれず死んでいくのが恐ろしかったのでしょう。だから「私が存在していたことを覚えていて欲しい」という願いを自分が「愛してさえいない」人間に託さなければならなかった。それほど直子という女性は孤独だったということなのでしょう。そして「忘れられるわけがない」と言ったのに記憶は徐々に薄らいでいってしまう…哀しいですね。細かい事実を忘れることで浮かび上がってくる真実というものがある。それに気づくということも哀しいことです。「さえ」という一言にこうした哀しみがぎゅっと凝縮されているように思います。 村上 春樹『ノルウェイの森 下』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約4797件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 大ベストセラーとして知られる、村上春樹の『ノルウェイの森』。死と再生を描いた内容は素晴らしく、文章も儚くも美しいもので構成されていますが、一方で読み手を選ぶ小説ということも事実です。この記事では、そうした点を徹底解説しています! 長らく続けてきました、ノルウェイの森 勝手に配役は今日で最終回。 レイコさんの話だけに出てくる少女です。 つまり、この少女は小説で実物がお話のメインに出てくるわけじゃないです。 ワタナベにも会わないし、勿論、直子とも何の関係もありません。 こういった内容のため、大ベストセラーではありますが、特に若いうちに読むべき本だと思います。と書いているように、ターゲット層はかなり狭いと思ってもらってもよいでしょう。最終的に直子は死に、そのまま同時期に交流を重ねていた大学の同級生・緑を選ぶことになります。世間と今一つ馴染めず、日々を無為に過ごしがちな大学生を主人公とし、ヒロインの心は高校時代のある地点に立ち止まったまま、体だけが生きています。僕は1969年、もうすぐ20歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。主人公の「私」は、失われた親友の彼女・直子と親しくするようになるのですが、彼女はやがて精神を病んでしまいます。実際、著者の村上春樹もこの小説が売れたことで「ひどく孤独になった」と語っているくらいですし。暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。おそらくハマり方は二通りあり、「何だか世間から浮いているような気がする若者」が内容に共感する、または村上春樹の文章や世界観が好みにストライク、というものです。そのため、これもやはり事実だけをみてしまうと、すごく一本調子で平坦なストーリーに感じられるでしょう。これも、主人公は流されるがままに行なっているだけで、主体性はありません。言うなれば「モテる」男でもありますが、モテる理由も詳しくは描かれず、その点もストーリーから説得力を失わせています。直子との再会をはじめとする出来事は、村上春樹流の表現でサラリと流されてしまうのです。そこにあるのは、ただ雪が降り積もるように重なっていく事実だけなのです。さらに、直子と同じ療養施設で過ごしていたレイコとも身体を重ねました。また、ストーリーに大きな出来事はありますが、それがあまり強調されて描かれることはありません。しかし、一方でいわゆる「ハルキスト」でもないため、好きな小説だからこそ最初のほうはガンガン批判もしていきます。一方で称賛も欠かしていませんので、中立的な視点で描くように心がけた結果と思ってください。まず、この小説のストーリーには説得力に欠ける部分があるのは確かです。この本が売れた理由は、恐らく内容そのものではなく、本が発売された時代背景が大きく作用していると感じています。逆にいうならば、上記にあてはまらない読者が読むと、恐ろしくつまらないと思います。普段本を読まない方が気楽に読み始めると、思わず投げ出したくなるような作品でもあります。このように、「私」の行動は事実だけを書きだすと「色に耽っている」だけなのです。「私」の一人称視点で進んでいく物語は、一見するとすごく平坦に展開されていきます。