およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドに … )まで複雑に絡み合って英国の歴史が激動していた時代です。しかし、メアリー女王の一人息子のジェームズは、メアリーの廃位直後、御歳1歳でスコットランド王位に就きました(ジェームズ6世)。四人の摂政が次々に殺害されたり処刑されたりの後、親政を敷きました。王権神授説を唱えたことでも有名です(フランスのルイ14世よりもずっと早い)。現在、北アイルランド人は、英国およびアイルランド共和国双方の市民権を持っています。つまり、両方の国のパスポートを持てます。現実には、北アイルランドは、今も英国の領土です。つまり、税金や法体制はすべて英国に則っていますし、英国議会に(人口に比例した)議席も持っています。独自の北アイルランド議会を持ち、つまり立法権もあるんですが……、議会はあまり機能していないようです。ベルファスト合意の後に設立された北アイルランド政府も同様の様子です。11世紀に、(フランス北部を拠点にする)ノルマンディー公ギヨーム2世により、イングランドが征服、統一されました(ノルマン征服)。当時、ローマ人がバース(Bath)村に建設した温泉が、現在の英語のbath (風呂)の語源です。あるいは、英国の地名で、"c(h)ester"が語尾につくもの、たとえば、マンチェスター(Manchester)、ウスター(Worcester)、レスター(Leicester)は、当時由来です。その後のイングランドとスコットランドとの歴史は……、大変、めまぐるしいものです。内紛にも事欠かず、また欧州でよくあるように、王族が別の国の王族と婚姻をしばしば繰り返すこともあり、ある時は傀儡になった(された?
イングランドはアイルランド、フィジーとトゥイッケナムで戦い、ウエールズ戦の会場は未定。スコットランドは本拠地マレーフィールドで日本、フランスと戦い、ローマでイタリアと対戦予定のようだ。 大会は12月5日までおこなわれる。
「Call of History ー歴史の呼び声ー」は歴史情報のポータルサイトを目指して、記事の更新を行っています。現状ではサイトを継続していくために皆様の支援が必要な状態となっています。よろしければ資金面や記事を更新する上での参考文献の支援をいただけると幸いです。スコットランド啓蒙的な自由主義の伝統は多くの企業家を育て経済繁栄を推進したが、一方で雇用・貧困対策は後手に回って問題を先送りした。十九世紀後半からその兆しは明らかだったが、重工業が完全に衰退した第二次大戦後、喫緊の課題として浮上したのは住宅、雇用、教育、貧困対策など福祉の諸問題であり、社会的不平等の問題であって、政府による福祉の拡大・充実が望まれたが、経済力の低下はスコットランドの地位の低下を意味してスコットランド政策は軽視され、1970年代に北海油田の採掘が本格化して持ち直すも、1980年代のサッチャー政権はむしろ福祉の削減を進めたから、スコットランドとイングランドの政策のギャップは拡大、1970年代以降スコットランド・ナショナリズム運動が盛り上がり90年代に労働党政権を生み出すことになる。期待を集めたブレア政権もまた、不徹底な地方分権がむしろ問題を先送りにするだけで、主にイラク戦争など外交問題で失墜し、90年代のナショナリズム運動は福祉政策重視の独立・自治権拡大運動へと転換、2014年の住民投票へと繋がっていく。「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。「ヤマアラシのジレンマ(porcupine dilemma)」という社会心理学用語がある。寒空の中二匹のヤマアラシは寒さを凌ぐため体を寄せ合おうとするがお互いの針が刺さって傷つけあってしまう。お互い傷つけあいながらもなんとか適度な距離を見つけようとする、というショーペンハウエルの寓話をフロイトが紹介し、1970年代に米国の心理学者レオポルド・ベラックが人間関係の距離の取り方を分析した論考で名付けたものだが、その日本語訳「山アラシのジレンマ―人間的過疎をどう生きるか」(1974)の解説で小此木圭吾氏がフロイトの言を紹介するかたちでヤマアラシのジレンマの例としてイギリス人とスコットランド人を挙げている。隣り合う二国として千年に渡り二匹のヤマアラシは適度な距離を探してお互い傷つけあってきた。多くの場合、一方にとって居心地の良い距離が他方にとっては我慢を強いるものであり、針をぶつけ合うたびに多くの血が流れてきた。これからはお互いが針を刺しあうのではなく、自身の針の長さを伝えることで二匹のヤマアラシは居心地の良い距離を模索していかなければならない、ということを、より多くの血を流し、我慢を強いられてきたスコットランドは痛感してきただけに、今回の住民投票へと繋がっていったのだろう。高橋哲雄は十八世紀後半から十九世紀にかけて顕在化してくるスコットランド人意識についてこう分析している。1603年、エリザベス1世が後継者ないまま死んだ。王位継承権はメアリ・ステュアートと愛人ダーンリー卿との間の子、スコットランド王ジェイムズ6世が持つ。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの祖母はヘンリ7世の娘でスコットランド王ジェイムズ4世妃マーガレットである。マーガレットは夫の死後、スコットランドの有力貴族アンガス伯と再婚、二人の間に生まれたマーガレット・ダグラスが嫁いだのがダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの父である。ジェイムズ6世はマーガレットの孫二人を親に持った、非常に濃いイングランド王家の血統を持っていた。名誉革命体制が終わり、グレート・ブリテン連合王国誕生へのカウントダウンが始まる。スコットランドにとってジェイムズ2世はカトリック政策を押しつけるなど様々な悪政もあって困った面はあっても、なんだかんだで我らの王である。また、王の放逐は清教徒革命を彷彿とさせ、その後の味わった苦難を思えば、名誉革命には強い危機感を抱かざるを得ない。穏健なスコットランド議会は国教会制度の廃棄と引き替えにウィリアムを支持したが、やがて議会もウィリアムから離れていく。スコットランド王をイングランド王として迎えることの効果を果たしてエリザベス1世はどれほど認識していただろうか。意図的であったのだとすれば凄まじい一手である。エリザベス1世はその統治下で、内乱を制し、フランスを退け、スペインを撃破し、アイルランドを屈服させて小国イングランドの基礎を築いてきた。そして、彼女が自身の死によって選んだのが、自身が命がけで守ってきたテューダー家の支配を自身の代で終わらせることによってイングランドがスコットランドを呑みこみブリテンを統一王権の下に置く、というものだ。しかし、スコットランド王は十六世紀を通じてメアリ・ステュアートを始め、代々、イングランドの王位継承権を盾に野心を見せてきた。スコットランド王次第で全てが無に帰すかもしれない大博打である。十四~十五世紀に多民族多部族社会からハイランド人とロウランド人という二つの民族集団を中心とした社会への転換が起き、しかもその両者は反イングランドという共通点を除いてあらゆる面で互いに対立するようになる。このロウランドとハイランドの対立と共存が以後のスコットランド社会、ひいては英国を動かす大きな流れとなっていく。歴史上多くの例にみられるようにスコットランドもまた戦争によって引き裂かれた国となった。「グレンコーの虐殺」は、多くの脱出者があったことですぐに露見しスコットランドのみならずイングランドでも非難の声が上がったが、ウィリアム3世は事前に知らされていなかったと自身の関与を否定、関係者も形ばかりの辞任や逮捕だけで後に復権を果たしている。グレンコーの虐殺についてはイングランド史からはスコットランド長官ダルリンプルの独断によるもの、スコットランド史からはウィリアム3世の命があったものとして意見が分かれている。ウィリアム3世によってスコットランド北部ハイランドのジャコバイト派諸氏族は壊滅的な打撃を受け、ハイランド地方は大きく衰退することとなった。スコットランドは、産業革命によってまず毛織物が、十九世紀に入り重工業が栄え、やがて世界の工場として大きく飛躍する。独立と引き替えに経済の繁栄を得た格好だが、一方で十八世紀を通じて行われた囲い込みによって特にハイランド地方の農民を中心に職を失って都市に流入し、あるいは新大陸への移民となった。経済繁栄と人口流出とがほぼ同時期におきて大都市と地方の格差、貧富の差が歴然となっていった。十八世紀まで教会制度に基づく福祉が行われていたが十九世紀に入り工業化と都市化によって教区単位での福祉は機能しなくなった。ヴィクトリア期の繁栄と矛盾は二十世紀に入って重工業の衰退とともに社会問題として顕在化する。政治的独立を失い、経済的融合を果たし、社会的従属関係に置かれる中で、ロウランドがハイランドの文化を吸収していくことでイングランド人とは決して相容れない文化的差異を持つ想像の共同体としてのスコットランド人が創られる。社会学者ジグムント・バウマンの言を借りるなら、コミュニティが壊れたときアイデンティティーが生まれたのである。そして、エリザベス・ジェイムズ以来の同化の夢はここに潰えたのだ。 以上が、スコットランドに関係する英国の歴史でした。以下、ウェールズとアイルランドとについても少し触れておきます。スコットランド独立問題に関係して、スコットランドが世界中で話題になっています。そこで、背景となるスコットランドの歴史をまとめてみました。1688年に起こった名誉革命(Glorious Revolution)は、無血として知られているのが一般的でしょう。実際、イングランドではほぼ無血で王位が(ジェームズ1世/6世の息子の)ジェームズ2世/7世から(娘の)メアリー2世とその夫でオランダ総督のウィリアム3世との共同統治へと譲位されました。しかし、スコットランドとアイルランドとでは(フランスのルイ14世の支援も受けて)ジェームズ2世/7世を担いで反乱が起き、鎮圧される(つまりはイングランドに破れる)まで多くの血が流れました。この傾向は今でも微妙に見られるようで、どちらかと言えば、イングランドとフランスとはライバル意識が強いのに対し、スコットランド人はフランスを好意的に見ている傾向があるのを感じます。その後、ジェームズは、イングランド女王エリザベス一世の死去後、(血縁関係から)イングランド王に指名され、ジェームズ1世として即位しました(ステュアート朝の幕開け; Union of the Crowns)。ジェームズは、スコットランド王の地位は保ったままでした。つまり、イングランドとスコットランドとの両方の王になったわけです。ジェームズ1世/6世以降、この同君連合体制が 100年続くことになります。ジェームズはイングランドの宮廷に住み、以降、スコットランドに帰ることはほとんど無かったそうです。ちなみに、イングランドによるアイルランド支配を確立させたのもジェームズの時代です。そして、1822年にジョージ4世が英国国王として 171年ぶりにスコットランドを訪問して以来、タータンは英国全土で人気を博すことになり、今ではたとえばバーバリーの「チェック」模様として英国の代名詞的模様になっています。— Quest for climbing without avoidable risksこの"the Forty-Five"は、今でも、特にスコットランド人には歴史上の大事件としてよく知られているようです。これに絡んで余談を三つ挙げます。ジェームズ1世/6世以降は、同君連合が形成されたとは言え、そこから 100年後の統一までの道のりは平坦には程遠いものでありました。王族とスコットランド、イングランド両国の議会および軍事勢力からオランダ、フランス、ドイツなどの外国王家も巻込み、宗教や利権や愛憎(? イングランドとスコットランドはその後もずっと争っていて、たいてい スコットランドは劣勢でした。 ところが、イングランドのエリザベス1世が亡くなった後、血縁関係 のあるスコットランド王のジェームズ6世がイングランド王(ジェーム スコットランド独立問題に関係して、スコットランドが世界中で話題になっています。 そこで、背景となるスコットランドの歴史をまとめてみました。 ローマ時代からノルマン征服まで ブリテン島が歴史の表舞台に登場するのは、 紀元一世紀(43年)にローマ人が侵略開始して統治してからです。 中世後期のスコットランドは、1286年のアレクサンダー3世の死から1513年のジェイムズ4世の死までの間とされ、この時期に、13世紀末のウィリアム・ウォレスや14世紀初頭のロバート・ブルースのような人々の努力のもとでイングランドからのスコットランドの独立を確立した。